ここ数日、雨音を聞かない日がない。 店も自宅も訪う者はなく、妻と二人で過ごす穏やかな時間が増えた。 出掛ける用もないので只管書を読み耽る至福の片隅で、しかし。 物足りなさにも似た何かが確実に息づいていた。 【紫陽花の庭 ―後編―】 神社の敷地内にある紫陽花も綺麗に咲いている。自宅の庭に咲いているものと品種は同じであろうが矢張り色味が違っていた。 拝殿の軒先から、急に強くなり出した雨を眺めて雨足が弱くなるのを待つ。 「傘を持って来るべきだったな……」 煙草を取り出して火を点けた。雨に溶ける煙を目で追いながら、このまま雨宿りを続けたところで時間の浪費にしかならないような気配が濃くなりそうな気配。 「仕方がない、濡れよう」 一つ溜息を吐いて、大粒の雨が遠慮なく落ちてくる空の下へと歩き出した。 石段は滑るしこれだけ降られてしまってはあっという間に着物は雨を吸い込んで重くなり、急いだところでメリットがあるようにも思えない状態だった。彼はそのままいつもの歩調で自宅に戻る。 数分歩けば自宅に着いた。 玄関の戸を開けようとしたところで、ひたと足元に冷たい塊の触れる気配。 「石榴、お前は何だってこんな時に出掛けるんだ?」 自分と同じようにびしょ濡れの状態の猫は、主を見上げて小さく啼くと水気を払うように身を震わせて雨水を飛び散らせ、甘えたように足元に身を寄せてきた。 「あぁ、まったく…仕方のない奴だな」 屈んで抱え上げ玄関の戸を開ける。 「千鶴子、今戻った。すまないが拭くものを持って来てくれ」 奥座敷か台所にいるであろう妻の名を呼ぶが返事も跫も聞こえてこない。 「千鶴子?」 台所で水仕事をしている――或いは、この雨音の所為で聞こえないのだろうか。 玄関の鍵はかかっていなかったので不在ということはないと思ったが、足元に視線を落としてみると妻の履物が見当たらない。 古書肆はまた諦めたように溜息を吐いて、庭から奥座敷に回りこむことを選択する。いくら何でもこのままの状態で家に上がることは躊躇われた。 雨を浴びた紫陽花がまさに絵のような華やぎを見せている。 そして座敷に目をやって、古書肆は三度溜息を吐いた。どうやら妻は客人に留守を頼んで買い物に出掛けたらしい。 そしてその客人も客人で、留守を預かる意識は著しく低く、恐らく妻を見送って早々に眠りに就いたことは容易に想像がついた。 呼んだところで起きるだろうか。 一抹の不安が脳裏を過ぎる。 「榎さん」 とりあえず呼んでみたがまるで反応がない。 「榎さん。――おい、起きないか榎木津」 「ん……」 作り物のような瞼が小さく震える。なかなか奇跡的な幸運かもしれない。 焦点の合わない視線が声の主を探すように宙を泳ぐ。 「きょう…ごく?」 「あぁもういいから早く起きてくれないかなぁ」 瞬きを繰り返して、主の姿を確認するなり突然――探偵は目を覚ました。 「何だ、お前。いつも僕には注意するくせに自分だって庭から回り込んでいるじゃないか」 「あのなぁ、ここは僕の家なんだぜ? あんたにとやかく言われる筋合いはないよ。いいからさっさと風呂場に行ってタオルか何かを取って来てくれないか。こいつと二人分頼む」 左腕に抱えた猫を少しだけ持ち上げて状態を見せた。 「おぉ、にゃんこ! ずぶぬれじゃないか」 「だから急いでくれたまえ。これじゃ家にも上がれやしない」 「お前もひどい濡れようだなぁ。着物なんかぐしょぐしょじゃないか。――諒解った、そこで待ってろ」 起き上がると勝手を良く知っている家の、浴室の方へと姿を消してほどなくして大きめのタオルを二本手にして戻ってきた。 「ほら、こっちはお前のだ。ついでに風呂の支度もしてやったから感謝するんだな。にゃんこは僕が拭いてあげよう」 タオルを渡し、それと交換に猫を預かりタオルで包む。 面白がって、じゃれ合うように雨を吸った猫の体を拭っている探偵に渋い顔をしながら古書肆も自分の髪を拭い着物の水気をできるだけ拭い取った。すぐに水を含んで重くなるタオルを絞って水気を切り、また拭ってを数回繰り返してどうにか水を滴らせずとも動けそうな体裁を整える。 「終わったか? 終わったんだな。なら着替えは後で持って行ってやるからお前はさっさと風呂に入る。にゃんこは僕が面倒見ててあげよう」 「それじゃあ頼む」 そのまま風呂に向かって湯船につかり、冷えた体を温めた。夏場とはいえあれだけ濡れると流石に皮膚の感覚がおかしくなる。 「まったく、散々だな…今日は」 温覚が回復して、体が浴室にいることに対して蒸し暑さを覚え出したのを機に中禅寺は風呂から出た。 脱衣籠の隣にやや乱暴に、探偵が見繕ったらしい着替え――草色の和服があったのでそれに着替えて居間に戻る。 「帰ってきたな」 「そういえばあんたは一体何をしに来たんだい?」 珍しく、いつもの――床の間を背にした場所ではなくて、探偵の隣に腰を下ろして探偵が構っていた猫に手を伸ばした。 「紫陽花が見たくなっただけだよ」 「それで何でわざわざ僕の家まで来るのか要領を得ないなぁ。紫陽花くらいあんたの実家にだってあるだろうに」 「あるよ。でもここじゃなきゃ意味がない」 悪戯っぽく笑って告げる探偵に、溜め息のように深く息を吐き出して古書肆は煙草に火を点け水を向ける。 猫は客人の方に身を寄せて小さくニャアと啼いた。 「――で、何が聞きたいんです?」 「色が違う」 「それは土壌のpH濃度が均一ではないからだよ」 まだ止む気配もなく降り続く雨の中、青味を帯びたものと薄紅を帯びたものが葉の緑に鮮やかだ。 「花の色は助色素というアントシアニン等発色に影響を与える物質の他、土壌のpH濃度、アルミニウムイオンの含有量等によって様々に変化すると云われている。日本原産の最も古いものは青色だそうだが大抵の庭には青色と薄紅色の両方が咲いているな。花は、蕾の頃は緑色だがそれが白く移ろって、咲く頃には水色か薄紅色になる。 咲き終わりに近づくにつれて花色は濃くなっていくがこれも土壌のpH濃度によって差が出るね」 資料も見ずに能弁な古書肆は滑らかに語る。 「こんなところかい?」 「そう、そういう話」 満足そうに答えながら、探偵はまだ猫を構っていた。 柔らかい、少し癖のある探偵の髪には少し寝癖がついているのに気付く。 「眠れなかったのか?」 その白い面に少し疲れが見えるような気がした。 大抵、探偵は善く眠れない日が重なったりすると――どういうわけかここに安眠を求めてくる。 「寝たよ。お前が戻ってきた時だって寝てたじゃないか」 「家で、だ」 「こっちの方が都合がいいんだ」 喧騒から離れた静かな街の気配。 同じように雨が降ってもそれは心地よく眠りへと誘ってくれる。 畳の香りとそれに染みた――嗅ぎ慣れた煙草の匂い。 善く通る声が語る薀蓄。手入れの行き届いた庭。そこかしこに見て取れる――安らぎの気配。この家の主の、欠片。 彼の細君に、一瞬だけ困ったような顔をさせてしまうことに罪悪感じないわけにはいかないが――それを口にすると今度はこの古書肆まで困らせることになるだろうから探偵は口を噤む。 「榎さん?」 「何だい?」 話す気がないことを感じ取り、古書肆は選ぶ言葉を変えた。 探偵は抱き上げた猫に頬を寄せて、その少し湿った鼻の頭に愛しげに唇を寄せる。 無理をしている、と思った。 石榴を肩に乗せて、その体躯に頭を預けるように少しだけ傾けて、片手で抱えながら目を細める。 その、表情に。 衝動が込み上げてきて。 無意識に、頬に、手を伸ばして触れた。 探偵が振り返る。 猫が、気配を察して探偵が飛び降り部屋の隅の座布団の上で丸くなった。 求めたのはどちらからだっただろう。 唇が重なる。 濡れた音は雨音に掻き消される。 何度か角度を変えて口付けを交わした。 それだけで遣り取りできる何かをただ信じた。 言の葉よりも雄弁に、落とせるものがあると。 離れた唇を惜しむように、体を抱き寄せる。 古書肆は、探偵の力にただ、従う。 「何も聞かないんだな」 「云いたくないんでしょう? あんたは」 「うん」 「なら聞かないよ。僕はそこまで面倒見のいい人間じゃあないからね」 冗談っぽく口にすると、探偵の空気がふっと軽くなったのが判った。 「嘘吐きだな、お前。――本当に」 ゆっくりと体温が離れていく。 この束の間の温もりはしかし、ひどく凝縮されている分――余韻に浸っていられる時間は割と長い。 額に軽く唇で触れた。 目が合って、もう一度――今度は唇に自分のそれでそっと触れる。 「お前の家はひどく落ち着くな。だから人が集まるんだ。お前、きっと自分で呼んでるんだよ」 探偵は可笑しそうに笑って言う。 主は、心外だと云わんばかりの顔をして茶を淹れるため席を立つ。 「そんなはずはないよ。千鶴子の淹れたお茶が目当てなのがきっと半分はいるさ」 頃合を見計らったようなタイミングで、この家へと向かってくる跫が雨音に混じった。紫陽花の庭に目を遣れば、いつの間にか雨足が弱くなっている。 「だから僕はそんな不躾な輩に灸を据えるため不味い茶を淹れてやるんですよ」 肩越しに振り返って台所に向かった。 探偵の笑い声が雨音に混じって響く。 カラカラと、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。 「千鶴さん、早く来てくれないか? このままじゃ僕は京極の淹れた不味い茶を飲まされてしまう」 「放っておいて構わないよ、千鶴子。お茶なんか淹れなくたっていいくらいの客だからな」 夫達の遣り取りに控えめに笑い声をこぼして彼の細君が姿を見せる。 笑い声の響くこの家に、今日はもう少しだけいようと思った。 |
――THE END―― |
★アトガキと言う名の詫状★ 日本から紫陽花が枯れ切る前に書き終わって良かったなぁ…と。 びっくりですね。高原地域では8月半ばでもまだ紫陽花が咲いていました。というかこれからが見頃という咲き具合で開き直ることが出来ました(待て) いつもウォーキング&ジョギングをするコースの途中に何箇所か綺麗な紫陽花がありまして、それの色の違いについて調べてみたら京極に薀蓄を云わせたくなってこんな話が出来上がりました。 榎さんは間男みたいな振る舞いをするのは嫌なんだけれど堪えきれないときがままあって。 京極はそんな気配を察すると、自分から行動したりもしてたらいいなという希望。 京極夫婦と榎さんは、傍から見たらただの仲良しに見えるといいと思います。お互いにお互いのことを割り切っていてそれでも仲良くできる関係。それは見る人によれば綺麗な関係じゃないかもしれないけれど、彼らにとってはそんなことは些事であればいい。 |
>>>Novels-KのTOPへ >>>『clumsy lovers』のTOPへ |