再び眠りに落ちた妻から目を逸らし懐中時計に目を落とした。 そろそろ、駅に向かわなければ約束の時間に遅れてしまう。 躊躇いが決断しようとした自分の足を引く。何を選択しても、結局――傷付けることしか出来ない。 妻の白い頬に手を滑らせた。 ゆっくりと身を屈めて、起こさないように額にそっと唇で触れる。 「すまない。――そして…ありがとう」 行って来るよ。 上着を手にして家を出た。電車を乗り継ぎ待ち合わせ場所に向かう。 神田で下車して少し歩いた。通りを逸れて路地に入ると小さな稲荷神社で行き止まる。 人目に付かないその場所は、戦前最後に彼と会ったあの場所に少しだけ似た空気を纏っていた。だから、と云うわけでもないが外で待ち合わせをする時は大抵この場所を選んだ。 約束の時間までもう少し。 けれど、待っていると告げた探偵はその時を過ぎても姿を見せなかった。 【我儘の鎖】 昼間は随分暖かかったが夕方になると少し冷えた。 打ち合わせで神田まで来たついでに、弟の顔でも見て帰ろうかと思いついてそのまま足をそちらに向ける。 地理にそう詳しいわけではないけれど、何となく気が向いたので道を一本奥に逸れてみた。 東京の街並みの面白さは、こんな風に表通りを外れた途端に別の場所のような顔をした風景に出会えるところにあるような気がする。 もう一本、奥へと逸れてみた。 古い家並みが続いていたと思ったら急に、少し奥まって開けた場所に出くわす。 「へぇ、こんなところにお稲荷さんなんてあったんだ」 小さいながら鳥居もあり、なかなかに立派な構えだった。 興味深そうに視線を向けるとそこに、見覚えのある人物の姿。 「あれ?」 声を掛けようとして、やめる。 人の気配に敏感な彼が気付かないのなら、多分、声を掛けない方がいい状況なのだろう。 「今日は留守かな」 そんな予想を立てて、とりあえず――彼は当初の目的地に向かった。 いつもの通りに戻り慣れた道を進む。 擦れ違った女性の何人かは、足を止めて彼を振り返ったが当人はそんなことを気にも留めていない。 辿り着いた先は榎木津ビルヂング。 階段室の戸を開けて三階まで上り詰める。 ドアノブを捻って扉を開けた。来客を告げるベルが耳に心地よい音を奏でる。 正面のデスクには、肩書きを主張する黒い三角錐と。 「あれ? いたんだ」 不機嫌な顔をして、デスクに足を乗せ行儀悪く座っている――よく似た顔の弟の姿があった。 途端に、探偵は更に不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。 「何?」 「仕事で神田まで来たから。お前の顔を見て行こうと思って」 「もう見ただろ」 「うん、でも煙草一本くらいは付き合いなさい」 応接用のソファの背凭れに浅く腰掛けて、慣れた仕草で煙草を一本抜き出すと燐寸を擦って火を点した。左手を軽く振って火を消して、躰を捻って応接用の机の上にある灰皿を取りそこに捨てる。 吸い込んだ紫煙をゆっくりと吐いた。 煙は沈黙の濃度を上げ、探偵に――口を開かせる。 「……歩き?」 「そう、気が向いたから。散歩がてらね」 「ふうん」 「途中で、小さいけど立派なお稲荷さんを見付けたんだ」 探るような視線は自分の頭の少し上の辺りを見ているように見えた。 「そこでね、中禅寺君を見たんだけど」 揶揄うように、試すように、切り出す。 「だから?」 「待ち合わせをしている様子だった」 「そう」 「でもお前がここにいたからさ。ちょっと、意外だった」 何を何処まで気付いているのか知れなくて、探偵はただ兄を冷めた目で睨んだ。 「喧嘩でもしたの?」 「してない」 あれは喧嘩なんかじゃない。 「意地を張るのが悪いとは云わないけどね」 総一郎は苦笑して、長くなった灰を手許の灰皿に落とす。 その僅かな音まで響くように思えるほど、探偵社の中は静かだった。 「張る相手と、引く頃合はちゃんと選びなさい」 「解るように云う」 「云っているよ」 諭すように、勿体振るように口にする兄が焦れったい。 そういうことを露骨に表情に出す弟が可笑しくて、総一郎は煙草を灰皿で揉み消すと元の位置に戻して弟の方へと歩み寄った。 「試したかったんでしょ?」 「違う」 「じゃあ、傷付けたかったの?」 「知らない」 「あぁ…そうか。違うね。お前なら――思い知ればいいんだって、ちょっと自棄になった…ってところか」 こんなにもすぐ自分に返って来ているのに、それでも――そうせずにはいられなかったのだろう。 見透かされて、探偵は意外そうな顔で兄を見上げた。 淡く、端正な顔を綻ばせて彼は続ける。 「不器用だなぁ、本当に」 「煩瑣い」 衝動で口にした言葉だった。 少しだけ困らせてやりたくて。 この日を、自分がどれほど大切に思っていたか知らしめたくて。ただ、それだけで。 「期待、してたんじゃなかったの?」 「…………」 「礼二郎」 優しく、云い聞かせるように自分とよく似た声で兄は言の葉を紡ぐ。 「我儘をね、口にするのは悪いことじゃないよ」 でもね。 「それを、口に出来ない人間もいるんだ。お前とは、また違った不器用さを抱えた人間だね」 知っている。 ずっと、ずっと側で見ていた。それが焦れったくて、自分ばかり求めているような焦燥感に時折纏わりつかれて。 傷付けることになると知りながら、些細な我儘をそれでも聞きたくて自分を抑えられない時がある。 「云えばいいのに」 「云ったよ」 何度も云った。 「云い続けないと」 「だから、云ってる」 「なら、それでいいんじゃないかな」 「…………」 「でも、一つだけ忠告」 「何?」 「手を、離してはいけないよ。許すと、そう決めたのならね」 思いきり嫌な顔をして睨んだのに笑顔で躱された。 「――ソウの、そういうところがキライ」 「知ってる」 くすっ、と喉の奥で笑いながら応える。「お前が、その手を引かない限り多分大丈夫。掴んでもらえなくても無理矢理掴ませるくらいしてあげたらいい」 「だから、そういうところがキライ」 「うん、でも云わなきゃお前が動きそうにないから」 「…………」 「僕、今日はこれで帰るから。また近くに立ち寄ったら顔を出すよ」 「来るな」 「じゃあね」 くしゃっと柔らかな髪を撫でて、片手を振って兄は姿を消した。 引っ掻き回すだけ引っ掻き回して結局勝ち逃げされたようで面白くない。 「京極を見たとか云ってたな」 そんなはずない。 あいつは今頃家で、きっと。 でも確かに兄の記憶の中に見えた。 待ち合わせに選んだあの場所と、そこで――所在無く佇んでいた古書肆が。 見間違いかもしれない。 もう帰ったかもしれない。 あれから――約束した時間から、もう二時間以上も経っている。外はもう真っ暗で、窓から月が覗けるくらいだ。 けれど。 もし、本当に待っていたら。 自分が口にした我儘の鎖にまだ彼が繋がれたままでいたなら。 小さく舌打ちして事務所に鍵を掛け階段を駆け下りた。 目的地までが今日は遠い。いつもの倍くらいあるような気がしてくる。 走っても走っても近付かない。 暗い夜が、星明かりが足を引っ張る。 路地に入るとそこにはいっそう深い夜がいた。 振り払うようにただ、走る。 細い十字路。 抜けたすぐ先にある、路地。 奥まって開けたその場所で、月明かりの中聖域を守る鳥居。 その先に。 跫に気付いた影が動く。 小さな拝殿の柱に背を預けて、紫煙を燻らせ月を仰いでいた視線がこちらを向いた。 「あぁ、漸く来たか」 よく通る、大きくは無いが明瞭な声。 煙草を足許に落として下駄で火を消す。 「何でいるんだ、お前」 「随分な云いようだなぁ。あんたが、待っていると云ったからじゃないか」 「三時間だぞ?」 「もう、そんなに経つかい?」 懐中時計を開くと針は確かに約束の時間よりも三時間と少し過ぎた時刻を示していた。 「如何して」 「あんたは約束を破ったりしないからね。何かあったのかとも思ったが――見たところ無事のようだ。それなら良い」 「良くない。それにたった今破ったばかりじゃないか」 「でも来ただろう?」 「…………」 「それなら、それでいいんだ。この三時間は――いつも、僕があんたに強いている我慢とか、葛藤とか…そういうのを僕が忘れないために必要な時間だったから」 衝動だった。 彼が、こういう男だと知っていて――それでも、安易にそんなことをしてしまった。 少しだけ、近付くのが躊躇われた。罪悪感というのはこういう感情を云うのかもしれない。 ゆっくりと、古書肆に近付いて。 言葉の代わりにただ、抱き締めた。 「冷たいな、お前」 「まだ、夕方からは冷えるからね」 「すまない」 「謝るのは僕の方ですよ」 「何で」 「いつも…いつも、あんたに我慢ばかりを強いてしまっている。僕の我儘の鎖で、あんたを縛ってしまっている」 「いいよ」 「…………」 「いいんだ、お前なら」 それに。 「僕も同じだからいいのだ」 我儘の鎖で繋いで振り回して。困らせて。 「だから、そんなことを気にするな」 「ほら、こうして…あんたに許されてしまうから。僕は、いつも…その言葉に甘えてしまう」 「お前だからだ」 「…………」 「お前が、そういうヤツだからだよ」 「……ありがとう」 躊躇いがちに伸ばされた手。 背に回されて、体温をより近くにと求められる。 「勝手な云い分だと解っているんだ」 「うん」 「僕の、どうしようもない我儘だということも知っている」 「……うん」 「それでもね、矢っ張り――」 背に回していた腕を解くと古書肆は探偵が背に回していた腕をも解いた。 手首を、躊躇いがちに掴んだまま、告げる。 「矢っ張り…僕には、あんたも必要なんだ」 俯いたまま古書肆は顔を上げない。 「何処が勝手だ」 可笑しそうに笑って切り捨てる。 「強いて云うならそんな風に思うのがお前の勝手だな」 額を指先で軽く弾いた。 呆気にとられた顔で漸く顔を上げる。 「自分だけ必要としてるとでも思ったのか? この馬鹿本屋め」 「…………」 「僕だってお前が必要だから我儘を許すんだ」 「それは……」 「いいか」 古書肆の冷たい頬を両手で包み、顔を上げさせる。 「言葉に出来ることが、全てなんかじゃないだろう?」 それを誰よりも知っているはずなのに、自分のことになるとその理屈が何処かに飛んでしまうらしい古書肆をひどく愛しく思う。 そう。 確かに愛しさでもある。けれどそれだけで割り切れるような甘美な感情じゃない。 好きとか、愛しているだとか。そういう――睦言で割り切れる想いならもっと簡単だったのに。 「言葉になんかしなくてもいいから、僕にはちゃんと我儘を云え。勝手でもいい。理不尽だと思ったら僕はちゃんと八つ当たる」 だから。 「お前は、そういう理屈を気にするな。そして今まで通り、僕を我儘の鎖で繋いでおく。僕の我儘の鎖はちょっとやそっとじゃ解けないからそのつもりでいること。――いいな?」 困ったように微笑んで。 「負けたよ」 「ふん、僕に勝とうなんて甘いな」 「あぁ…そうだな。甘かったようだ」 唇がゆっくりと重なって、離れて。 探偵は満足そうに笑って快活に云う。 「今日はもう帰れよ。後でちゃんと埋め合わせをさせてやる」 意外そうな古書肆の顔。 それだけでもう今日は何だか満足してしまえそうだった。 「お前が、来たから今日はそれだけでいい。後はもう千鶴さんの側にいてあげなさい」 「榎さん」 「謝るなよ」 口にしようとした言葉を封じられて。 「ありがとう」 色色な想いを込めてそう口にした。 「また電話する」 「いや、僕が掛けるよ。――今日の、埋め合わせに」 頬に触れていた手に自分の手を重ね、中禅寺はゆっくりとそれを剥がす。 その手のひらに、唇でそっと、触れて。 「じゃあ、また」 名残惜しく、その手を離して踵を返し古書肆は神社を後にした。 その跫が聞こえなくなるまで見送って、一人残った探偵は煙草に火を点け手のひらに目を落とす。 温もりの欠片がまだそこにあるような気がした。 月明かりに晒されて、僅かに煌いて見えるような気もする。 互いを繋ぐ我儘の鎖の影かもしれない。 見えなくても確かに繋がっている。 たったそれだけの確信が、ただ、どうしようもなく嬉しかった。 |
――THE END―― |
★アトガキと云う名の詫状★ 兄上初登場でした!! あー…書いててすんごく楽しかったvv 一応個人的な設定だと、当初は兄上の一人称を「私」と決めていたのですけれど、身内の前では「僕」になるような気がして気付いたら僕で喋ってました。榎さん相手だから「僕」なんだろうなぁ…と思ったものの、秋彦の前でも「僕」のような気がしてくる。木場修の前でも僕だなぁ。司さんの前でも「僕」だろうなぁ。益田…益田は微妙だなぁ、どっちだろう。関口センセは…「私」のような気がする。和寅の前では「私」だ。大まかに分けると仕事モードの時と実家にいるときは「私」。気心が知れている相手の前では「僕」。その中間の時は「私」より。そんなかんじかなぁ。 そんなこんなで兄弟対話。これを書きたかったんです実は。 榎さんは兄上を苦手にしているといいと思います。 自分と京極の関係を何処まで知っているのか計り知れないから苦手なんだと思われる。 秋彦は榎さんと千鶴さんの一人だけを選べないことを、ずっとこれから先も気に病み続けて、それでも二人に許され続けて不器用に生きていくといいと思います。 言葉で割り切れる感情が全てじゃないと、榎さんと京極は互いに知りながら言葉にできないもどかしさに時時こうして我儘をぶつけ合って不器用に喧嘩して仲直りして何度も何度でもお互いをお互いに繋ぎなおせばいい。 |
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