玄関先で下駄を引っ掛け振り返る。
 自分を見送る妻への罪悪感が脳裏を過ぎるのはこんな時だ。
「お気を付けて」
「じゃあ、行って来るよ」
 肩越しに振り返って笑顔を向ける。
 閉めた戸の音で思考を遮断した。
 夕暮れの空には気の早い月が太陽を追いかけるように西へと向かっている。
 眩暈坂に自分の跫を響かせて、自分も彼を追いかけるように駅に向かって歩いた。

【妥協の月 ―後編―】

 家を出てから約二時間。
 下車駅に着いてからは十数分。
 漸く到着した石造りのビルを仰ぐ。約束の時間までは後ニ十分は余裕があった。けれど――
「遅いと云われるんだろうなぁ」
 苦笑して階段室のドアに手を掛けた。
 三階へと吸い込まれていく跫に、別の跫が重なり近付いてくる。
「ん?」
 思わず顔を上げた。他人と擦れ違うことなど滅多にないので思わず足を止める。
 二階の事務所の職員だろうか。
 そう思った矢先に跫の主の姿が見えた。
「遅いッ!!」
 予想通りの文句が開口一番に紡がれる。
「あんまり遅いから待ち草臥れて下りて来てしまったじゃないか」
「そうは云うが時間までまだ二十分は余裕があるよ」
 近付いてくる人物に一応言い訳を試みて、
「僕の支度が出来ているのだから待ち合わせの時間などただの飾りだ!」
 と、勝手な言い分で切り捨てられた。
「ほら、行くぞ」
 自分を追い越して一階へと向かう、その後ろ姿を追いかける。
「あんたが先に歩いたら案内出来ないよ」
「どうせ駅には行くんだろ?」
 機嫌良くビルを後にして駅へ。店仕舞いを始めた古書店の前を通り過ぎて行く。空はもう黄昏時を過ぎて宵空へと変わっていた。それも駅に着く頃には夜に染め替えられて月の冴えた光が闇を削る。
「どっち?」
「方面だけ判っても切符は買えませんよ」
「じゃあ、何処まで?」
「上野」
「何だ、懐かしいじゃないか」
 旧制高校時代、休日によく足を運んだ帝国図書館のあった街。
「お前と行くのは久し振りだな」
 買い求めた切符を片手に肩越しに振り返る。
 同じように切符を買い求めて先に改札を抜けた探偵に続いた。
 ホームも電車内も仕事帰りの人間で少し混んでいる。ドアの近くに立ち位置を確保してそのまま暫く揺られているうちに下車駅に着いた。
「――で、何処に行くんだ?」
 改札を抜けるなり、せっかちな連れが先を急かす。
「僕も人に教えてもらったんだが――多分、あんたも気に入るはずだよ」
「ふぅん……」
「少し歩くが構わないでしょう?」
 探偵を追い越して、先日知ったばかりの店に向かった。
 道を逸れると老舗の並ぶ通りが現れて、その中の一軒の戸を開く。
「いらっしゃいませ」
「予約をしておいた中禅寺ですが」
「はい、お待ちしておりました。奥の、お庭側のお座敷をお取りして御座います。御案内致しますのでどうぞ」
 仲居に案内されて店の奥へ向かう。
「料亭?」
「そんな大袈裟な処じゃあないよ」
「まぁ、確かに――」
 入ってすぐの空間には、カウンター席もあればテーブルもあり、座敷もいくつかあって客もそれなりに埋まっている。料亭では見られない光景だ。
 履物を脱いで中庭に面した廊下を渡り、案内された座敷は障子が開け放たれて、庭側の硝子戸からは手入れの行き届いた植木と南の空を臨むことが出来る。
 座卓に向かい合って腰を下ろすと「御注文が決まりました頃また参ります」と云い置いて仲居は座敷を後にした。
「――どうだい?」
「気に入らない」
 さっきから視界に入る、古書肆の記憶の断片――恐らく、この店を教えた相手――がちらついているのが余計苛立ちを煽る。
「仕方がないだろう?」
 苦笑して、困ったように御品書きに手を伸ばした。
「それに仕事で来たんですよ、僕は。人に聞いたことは先に断ったじゃないか」
「そんなことは些事だ。今日まで黙ってたのも気に入らないし、お前が何か企んでいる風なのも気に入らないね」
 頬杖を突いて窓の外を眺め遣る。
 不機嫌な横顔はそれでも作り物めいていた。
「そうまで云うなら帰りますか? 場所を変えた方がいいならそうするよ」
 ゆっくりと立ち上がる。
 賭けだ。
「あんたに――そうまで云われるなんて誤算だった」
 妥協は所詮妥協でしかないのかもしれないけれど、せめて。
 そう思ったのにそんな考えも今は空しいような気がしてくる。
 歩き出した。
 一歩、その場を離れようと足を踏み出す。
 その手を――…
「僕を、止めるのかい?」
 無言で、少し慌てたような顔をして、榎木津が掴んだ。
「……謝らないぞ」
 場都が悪そうに目を逸らす。
「知っているよ」
「僕は不満だ」
「それも」解っているつもりだ。
「でも、我慢してやってもいい」
「まったく」
 素直じゃないな。
 いや、それは――お互い様か。
 苦笑して、向き直って身を屈めて触れるだけの口付けを、ひとつ。
 意外そうに見開かれた鳶色の瞳。
「ささやかな埋め合わせだよ」罪滅ぼしかもしれないがね。
 もう一度、座卓を挟んで彼の向かいに腰を下ろし御品書きを開く。
「ほら、何から頼むんだい?」
 開いた御品書きを彼の方に向け、頬杖を突きそう問い掛けた。
 憮然とした顔で、
「こんなことじゃ騙されないぞ僕は」
 なんて小声で不満そうに口にしながら何かを誤魔化すようにお品書きを奪うと気に入ったものの名前をいい加減なアクセントで読み上げた。
 頃合を見計らったように現れた仲居に料理と酒を頼み、何処か擽ったいような沈黙の中頼んだものが届くのを待つ。
「教えろよ」
 目を逸らしたままで問われた。
「何をです?」
 だからというわけでもないが、南中を過ぎた月を眺め遣りながら応える。
「企んでるだろ、お前」
「そうですね。料理が――一通り来たらちゃんと話すよ。邪魔をされたくない」
「……随分勿体振るじゃないか」
「偶には、焦らされるのもいいでしょう?」
 近付いてくる、楚楚とした跫。
 障子が開き、榎木津の頼んだ日本酒と自分の所望したお茶、それからつまみにと頼んだ料理が運ばれてくる。
「……美味いじゃないか」
 料理が大したことなかったら文句の一つも云えたのに。そう云いたそうな顔で揚げ出し豆腐をもう一つ口に運ぶ。
「あんたも気に入ると思ったんだよ、だから」
「いつだったかトゲを見るために行ったところのよりも美味いくらいだ」
「そんなこともあったなぁ」
 また、廊下から跫。音を立てずに障子が開いて、入って来た仲居が出来立ての料理を卓上に並べ空いた皿を下げる。  
「御注文の品は以上でお揃いでしょうか?」
「そうですね。追加で頼むようならそちらに行くので暫く放っておいて下さい」
「かしこまりました」
 作法通りの身のこなしで座敷を出、障子を静かに閉てて部屋を後にする。
 跫が遠のき聞こえなくなると途端に探偵は身を乗り出すようにして尋いてきた。
「なぁ」
「何です?」
「いい加減教えろよ」
「急かすなぁ」
「焦らすお前が悪い」
「料理が冷めてしまいますよ」
「じゃあ、これを食べたら話せよ」
 不満そうに料理に手を付けながら、けれど料理は好みの味らしく余計釈然としない顔でこちらを睨む。
「そう睨まないでくれないか?」
「不満だ」
「そうかい」
「料理が美味くて腹が立ったのは初めてだ」
「普通は腹を立てる理由にしないからね」
 最後の一つを詫びの代わりに相手に勧めて箸を置いた。
 時間稼ぎ――なのかもしれない。
 榎木津が口にしたものを嚥下したのを機に席を立った。
「京極?」
「この座敷は縁側から庭に出られるんです」
 障子の開け放たれた縁側に歩み寄り、外廊下を兼ねた縁側と部屋を隔てる硝子戸を開く。
 夜気はうっすらと寒さを感じさせるほどにもう冷たい。
 けれどその冴えた空気のおかげで月が丁度良い位置に静やかにその存在を主張しているのが見えた。
「あぁ、綺麗な半月だ」
 仰ぎ見た月は輪郭を滲ませたように夜空に浮かんでいる。
 跫。
 隣に、彼の、気配。
「見事に半分だなぁ」
「あぁ。妥協の月だ」
「どのへんが?」
「十三夜をと――あんたに望まれたけれど今日になってしまったところとか」
「そんなことか」
「些事ですか?」
「口実でもなきゃお前、動かないだろ」
 憮然として、ポケットに手を突っ込んだままの姿勢で月を眺め遣る横顔に目を向ける。
 月明かりの下の方が余計、作り物のようだ。
「言い訳にしかならないかも知れないが――…」
 彼の視線をたどるように自分もまた月に視線を戻した。
「僕らには、こっちの方が似合いだと思ったのは本当ですよ」
 それでも妥協の月なのだ、今夜は。
「似合い? 何で」
 等分されているようにみえる光と影。
 時に光を飲み込んで、時に影に飲み込まれて。
 それでも離れることはなく、常に傍に在り続ける。半分ずつ、己を預けあっている。
「構うものか」
 苦笑して、探偵は詫びるように告白した。
「十三夜でも半月でも、三日月だって――いっそ新月の夜だって良かったんだ、僕は」
 星も月が見えない曇り空の夜でも構わない。
 ただ偶にはこうして同じ夜を過ごす時間が欲しかっただけだ。
 月明かりに透けそうな淡い笑み。
 そっと、手を伸ばして首に腕を絡めて抱き寄せた。
「どうしたんだ? 急に」
 らしくないじゃないか。
 人目につくような場所で、軽率なことをするような男ではない。
「ここはね」
 耳元で、良く通る声が小さく告げる。
「少しだけ奥まっていて他の部屋から死角になっているんですよ」
 ゆっくりと体を冷やしていく秋風。
 閉じ込めた体温が余計愛しく温かい。
 その分、罪悪感がじわじわと体を侵蝕していくのが解る。
 忘れてはならないもの。
 己のした選択と咎。
 それでも。
 抱き締め返されるから。
 許されているような錯覚を起こしてしまう。
 その錯覚に溺れ続けるためにこうしているのかもしれない。
 いずれにしろ――自分の罪だ。
「半分ずつ、だろう?」
 見透かしたように、思考を遮断する声。
「お前がこうして僕を求める、その事実だけで今はいい」
「よくないよ」
 離れた温もり。
 絡んだ視線。
 意外そうに自分を見下ろす端整な顔。
 その薄い唇に、ゆっくりと己のそれを重ねる。
 触れるだけでは物足りなくて、呼吸を奪い合うように口腔を侵し合って。
「試してるのか? お前。それとも――」
「ただ、僕であんたを満たしてみたいだけだよ」
 挑発するような言葉に面食らう。
「本気にするぞ」
「いいよ」今日は、帰らないつもりで来たんだ。
「云ったな」
「偶にはいいでしょう?」
「ならもうここに用はない」
「そうかい」
「帰るぞ」
「諒解ったよ」
 部屋に戻ると気温差に改めて驚かされた。
「あぁ、すっかり冷えてしまったなぁ」
「温めてやろうか?」
「ここじゃあ困るよ」
 肩越しに振り返って苦笑する。
 連れだって部屋を後にし会計を済ませて店を出た。
 すかっり暗くなってしまった裏通りに、二人の跫だけが響く。
「なぁ」
「何です?」
「どうして、上野だったんだ?」
 足を止めて探偵が問う。
「理由が必要ですか?」
 立ち止まって問い返した。
「別に。でも――お前らしくない」
「まぁ、それは否定しませんがね」
 最初はもっと近場で済ませるつもりだった。
 馴染みの店でゆっくり食事をする程度のささやかな時間で、終電を逃さないように帰宅するつもりでもいた。
 けれど、結局そうしなかった。
「――…あんたは」
「ん?」
「感傷は愚かだと思いますか?」
「唐突だなぁ。お前、お茶で酔ったんじゃないか?」
「失礼だな。年中酔ってるような状態のあんたに云われたくないよ」
「ははッ、辛口だな」
「――で?」
「あぁ、そうか。そうだな…場合によるだろ、そんなの」
 意外な答えだった。
 笑って切り捨てられると思っていたのに。 
「誤魔化すなよ?」
「そんなつもりじゃあないよ。――ただ」
「ただ?」
「久し振りにこの街に来て、変わったところも変わらないところも見て、それでも――懐かしいと思ったんだ」
 もう一度、彼と来てみたいと思った。
 そうしたらあの頃のような、様様な柵から自由だった想いだけで妥協の月の昇る夜を過ごせるような気がした。
「それだけですよ。アテは…外れたがね」
 探偵を置いたまま歩き出した。
 けれどすぐに追いつかれて。
 手を掴まれ仕方なくまた立ち止まる。
 沈黙が過ぎった。
 お互い、口にする言葉を探しているのが解った。
「どうして」
 目を逸らしたまま俯いてこぼす。
「自由にならないのだろうね」
「生きてるからだろ、そんなの」
「簡単に云うなぁ」
「でも事実だろ? 他に理由なんてあるものか」
「そうだな」
「だから、そのままでいい」
「…………」
「そのままのお前でいい」
「僕は」
「約束しろ」
「ただ、あんたが必要なだけなんだ」
 人通りがないから少し箍が緩んだ。
 自分には少し高い探偵の肩口に顔を埋めて表情を隠す。
「今更だな」
 笑い飛ばされた。
 でも、それは不思議な程不快ではない。
「あぁ…でも、偶にはそんな睦言めいた言葉の一つくらい聞かせろ。それで僕は結構満足だ」
「…………」
「返事」
「努力、するよ」
 苦笑して答えた。
 踵を返して先を行く。
「ほら、帰るのでしょう?」
 振り返った先には妥協の月と、その明かりの下に佇む探偵。
「当たり前だ。さっさと行くゾ!」
 既視感を覚えるほどに、きっとこれからも同じようなジレンマとやりとりを繰り返して、お互いにいろいろなものを預け合いながら傍に在り続けるのだろう。
 影に支配されながらも優しく闇を削る、あの――妥協の月のように。

   
――THE END――



★アトガキと言う名の詫状★

 執筆途中で抗い難い落描き衝動に襲われてしまったため随分遅くなってしまいました(--;)
 そんなこんなで久し振りの京榎(多分)完結です。
 京極に、

 「ただ、僕であんたを満たしてみたいだけだよ」

 って云わせたかったんです。
 でもこの科白は後編書き始めてから思いついたのですが。
 偶にはこんな夜があっていいと思う次第。榎さんはいつも余裕そうに見えるけど、余裕そうに「見える」だけで実際秋彦のことになるとメンタルで余裕がないこともあるんじゃないかなぁと。そういうのに気付いた京極は、ほとんど衝動的にフィジカルに榎さんを求めることがあってもいいんじゃないかなと。

 真壁は基本的に榎京前提で京榎アリ派(つまり榎京榎なカンジでリバOKな人)なんです。


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