旅館の人間に話を通して近くの眼科医に往診を手配した矢先だった。
 二階で何かが倒れたような物音に、階下にいた探偵が階段を駆け上る。
「京極?!」
 勢いよく左右に割れた襖。
 窓の外には薄闇が降りているが、部屋の中は照明で十分に明るい。
「大丈夫か?」
 畳に倒れている姿が見えた。歩こうとして、足元を布団の敷布にとられたのだろう。
「榎、さん……?」
 声の方に視線を向ける。迷いなく近づいて来る跫は判った。けれど――その姿が見えない。自分の世界は相変わらず、漆黒の闇の中にある。
 急に伸ばされた手に触れられて、反射的に体が硬直した。
「……京極?」
「見えない」
 聡い古書肆は自分の視覚の方に問題があるらしいことを悟る。
「見えないんだ」
 気配を手繰るように手を伸ばすと、指先が探偵の肌に触れた。距離を漸く把握して、古書肆は縋るように腕を回す。
 その腕は、僅かにではあったけれど。確かに、怯えたように震えていた。
 
【黎明の切欠 ―後編―】

 往診に来た眼科医は、診察を終えて階下に戻ると探偵と事情聴取のため同じ旅館に宿を取った警察関係者の一部にその結果を告げた。
 受容器には傷はないので精神的なものが原因と考えられるらしい。
 理由を問うとこの分野の研究は遅れているので詳しいことは判らないがと断った上で私見を述べた。曰く――

「視覚に精神的な面での過負荷が生じ、視覚情報を処理しきれなくなった結果ではないでしょうか。そのため精神側で視覚情報を遮断し、安定するのを待っている――というような状態にあると推測されます」

 とのこと。
 受容器に問題がない以上視力の回復(視覚情報処理の再開)は十分に期待できるが、精神的な過負荷の度合いによっては視力の回復に時間がかかることもある。そしてその精神的な過負荷の大きさは他者が測れるものではないので回復の時期は判断できないらしい。
 医師が宿を辞すと何処からともなく溜息が聞こえてきた。
「何でぇ、それじゃ結局ここに暫く足止めかよ」
 現場検証をしようにも、当事者――恐らく事件の犯人――は自殺しており、その場に居合わせた唯一の関係者であるところの中禅寺の視力が戻らないのでは事情聴取が一通り終わった先の仕事が停滞するだけになってしまう。
「おい、何処に行きやがる」
「二階だ。――ついてくるなよ」
 探偵は階段の方へと歩き出した。
 外にはまだ宵が居座っていたけれどほとんど夜に支配されている。
 襖を開く音。
 視界が遮断されてしまうと人はこんなにも音に過敏になるものだろうか。
「僕だよ」
 告げる声に安堵しかけて、しかし。 
「医者が帰った」
「……そうですか」
 近づいて来る跫。体が強張るのを自覚する。
「目に、傷はないらしい」
「怪我をした憶えはないからね」
 夢と現の区別がつかない。
 脳裏を過ぎる昏い記憶と現在との境界が曖昧になる。
「――…京極?」
「何です?」
 もしここがあの場所で、近づいてくるのがあの男なら自分をそう呼ぶはずがない。
 そう思うのに――錯覚しているだけなのではないかという疑いをどうしても拭いきれない。
「何も尋かないんだな、あんたは」
 自分のすぐ側に膝を突き、探偵は頬に手を滑らせて自分の存在をその体温で知らしめる。
 その手に自分の手を重ねて、古書肆は独り言のように尋ねた。
「だって、言いたくないんだろ? お前」
「――視えて、いるんだろう?」
 暗く静かなあの箱の館。
 押し寄せてくる過去の断片。
「僕だって忌々しいくらいだ」
「あんたが尋くなら答えるかもしれない」
「そんな戯言を信じろって云うのか? 僕に?」
 笑わせる。
 馬鹿にするなよ、という微かな牽制が込められているのを感じた。
 沈黙。
 途端に、触れている体温さえ曖昧になるような気がする。 
「あんたは…いつも、よく平静でいられるね」  
 頬に触れていた手をゆっくりと剥がした。
「見えない恐怖は…克服できそうにないな、僕は」
 自嘲するように小さく笑う。
 まだ、笑うことが出来る。
 上手く笑えているかは判らないが――意識は、笑ったつもりだった。
「喋れないジレンマは味わったけれど見えない方が堪えるね」
「…………」
「喋れないなら筆談をすれば言いたいことは概ね伝えることが出来るが見えないものはどうしようもないからなぁ……」
 苦笑する。
 声と気配で探るように探偵に向けられた視線はしかし、いつものように真っ直ぐではないので交差しない。
「喋れたって、言葉が見つからなければ同じようなものだろ」
 そう口にした探偵の声音に、もどかしさのようなものを感じた。
「視覚情報というのは矢張り相当なデータ量になるからね。あんたの目が時折見えなくなるのも恐らく今の僕の理由と構造は同じなんだろう」
 視え過ぎてしまった視覚情報の、未整理分が過剰に累積してしまうと探偵の目は一度その整理を優先して強制的に遮断されてしまう。
「希望的な観測でしかないが――それでも、あんたに比べれば情報量はずっと少ないはずだ」 まるで自分に言い聞かせているようだ。
 そんなことを思ってまた苦笑する。
「余計なことを考え過ぎるのはお前の欠点だよ」
 できるだけ、意識して普段通りの口調で探偵は切り捨てた。
「もうすぐ夕飯だな。食べ難いだろうから握り飯とか食べやすいのにしてもらえるよう頼んで来てやろう。こっちへ持って来るからそれまで少し休んだ方がいい。――お前、自分で思ってるより疲れてるよ」
 揶揄うように額を指先で突いて、探偵は部屋を後にした。
 開いた襖をゆっくりと閉じる。
 それに軽く背を預けて天井を仰ぎ深く息を吐き出した。苛立ちを誤魔化すように煙草に火を点ける。ゆっくりと階段を下りると木場の姿が一番近くに見えた。
「今は放っておいてやれ。お前みたいな脳味噌まで四角いのが行ったら治るものも治らなくなる」
「――大丈夫なのか?」
「お前だって聞いてただろ? 目に傷はないんだ」
「馬鹿。――礼二郎、お前がだよ」
 深く澄んだ鳶色の目を見開いて、探偵は通り過ぎようとした幼馴染を肩越しに振り返る。
「だから嫌な奴だって云われるんだよ、お前」
 不適に笑って探偵は広間の灰皿で煙草を揉み消して仲居を探しに広間を逸れた廊下へと姿を消した。
 夕餉の支度が整ったと仲居が呼びに来る。
 探偵は自分の分と、中禅寺の分を盆に載せて二階へと姿を消した。
 料理の割に盛り上がりに欠ける食事の時間が過ぎていく。
 下で食事を摂った者達が食事を終えて、示し合わせたように広間に引き上げた頃探偵は二人分の食器を載せた盆を抱えて一階に下りてきた。
 通りかかった仲居に盆を預けて探偵は、また広間を通り過ぎて二階へと上がっていく。
「榎木津さんっ!」
 その後を、探偵助手が追いかけていった。
 中禅寺がいるはずの部屋を通り過ぎる。それが意外だったけれど探偵の足は止まらない。
 廊下の突き当たりは共用のスペースになっていた。廊下は左手に折れ、右側に客室が続いている。
 探偵は共用スペースのソファに体を沈めた。ひどく憂鬱そうな表情。それを晒したくなくて下の、知人達の目を避けるように二階に来たのだろうと知る。
「……何か用か?」
 煙草に火を点けながらこちらを見ずに尋いてきた。
 端役なのであろう自分達には十分な説明がないので現状が判らない。その説明を求めたくて追いかけて来たはずなのに違う言葉が口を吐いた。
「いいんですか? 側に…いてあげなくて」
 溜息のように紫煙を吐き出して、煙草をくわえたまま横目で益田を一瞥する。
「そう。――見つからなければ意味がない」
「意味が、ないって……」
「――サガシは、やっぱり苦手だ」
 背凭れに体重を預け、探偵は仰け反るように弛緩した。
「何か…探し物ですか?」
「そう」
「なら……」
「お前じゃ無理だよ」
 封じるように、急に前かがみに座り直して容赦なく切り捨てる。
「そんな」
「無理だよ。あいつの問題だからな」
「え?」
「それでも、僕は――」
 黎明の切欠を探している。
 呟くような声だった。
「れいめいの…きっかけ――ですか?」
 突飛な言葉に漢字の変換が追いつかない。
「そう」
 暗闇から連れ出す術を。
 朝を告げる太陽の輝きの片鱗を。
「だからお前に出来ることはないよ。僕にもないかもしれないけどな。――だから、放っておけ。馬鹿修にでも協力してろ」
 下に戻れと暗に促されて、逆らうことも出来ずに益田は引き下がった。
 跫が遠くなる。
「夜明け…か」
 口にした言葉に触発されたように、脳裏で微かなイメージが点滅する。
 思い出しかけた何かはしかし、形にならず遠ざかった。 
 その苛立ちをぶつけるように灰皿で煙草を揉み消して。
 ゆっくりと、あの部屋に向かう。
 襖をいつものように開け放った。  
「――…今度は、誰です?」
 交わらない、けれど音の方向を正確に拾って向けられた視線。
「僕だ」
 後ろ手で襖を閉めた。
 迷いなく歩み寄る。
 夜はもう随分更けていた。
 多分、下にいる連中はそのまま一階の客室を使うかあの広間で雑魚寝を選ぶだろう。探偵にはそんな確信があった。
 今日でもう何度目だろうか。
 布団の上に座した古書肆の側に歩み寄る。
 膝を突いて、今度は――そのまま抱き締めた。
「榎さん……?」
 怪訝な顔をして名を呼ぶと、探偵はそっと離れて唇を奪った。
 角度を変えて、何度も。
 執拗に――けれど、優しく口付けを繰り返す。
「やめてくれ。――人が、来たら困る」
「来ないよ」
 一蹴された。
 古書肆は距離を探るように手を伸ばして、探偵の頬に触れる。
「榎さん」
 らしくない。こんな遣り方は。
「榎さん」
「何?」
「どうしたんです? 一体」
 自分より余程――余裕がないように思えた。
 多分、原因は自分なのだろうけれど。
「塗り潰したり書き換えたりしてやれないなら――僕に出来ることなんて後は余計なこと考える余裕を奪うくらいだろう」
「場所が悪いよ」
「そんなに似ているか? ここは」
 瞳を覗き込むように額を合わせた。
 こんなに近くから見下ろしているのに視線が絡まない。それが、もどかしい。
「ただ暗くて木々のざわめきが聞こえてくるだけだろうが」
「人間は複雑な生き物ですよ。非常に単純な回路と非常に複雑な回路が同居している」
 自分で何度そう割り切ろうとしただろうか。
 けれどその努力は悉く、昏い記憶の影に粉砕されてしまうのだ。
「僕は別の場所を思い出したよ」
 探偵は、不意に――とても優しい声でとても淡く笑って告げた。
 そう、今思い出した。
 どうして今まで思い出さなかったのだろう。
「別の場所……?」
「寮の屋上だ。流星群が見えるかもしれないとこっそり忍び込んだことがあった」
「あれをこっそりと云うんですか?」
「結局見えなかったな」
「途中で待ち草臥れてあんたが眠っていたからだよ。僕は見た」
「起きたら丁度夜明けだったから夜明けを見ようとしていたのかと思ったくらいだ」
 額にまた一つ口付けを落とす。
 そっと、布団に古書肆を横たえた。
 覆い被さるように見下ろす。
 今度は抵抗されなかった。
「その目に僕が映らないなんて許さない」
「…………」
「僕のいない闇の中で、僕をあの男の影に重ねるのも許さない」
「――そんなつもりは」
「見えないものはそんなに信じられないか?」
 もしそれを肯定するならば。
「お前と僕の間にあるのはそんな程度のものなのか?」
 それこそ許さない。
「否定するなら、見えないものは信じられないならその目でちゃんと僕を見ればいい」
 外の気配が聞こえてきた。
 虫の声。風が騒いでいる。夜の跫だ。
 それを――…
「京極……?」
 中禅寺の噛み殺したような笑い声が、破る。
 想定外の反応に、探偵は珍しく呆気に取られたような顔をする。
「あぁ、今のあんたの表情を見逃したのは一生ものの後悔かもしれない」
 冗談のようにそう口にした。
「まったく、あんたには敵わないな」
「……僕は今物凄く馬鹿にされた気分だ」
「とんでもない。それは…心外だ」
 けれどその声色はいつもの彼で。
 ひどく不本意だったけれど榎木津はそれでも安堵する。
「いつも、僕に黎明の切欠をくれるのはあんたなんだなぁ……」
 見えていないはずなのに、何故か視線が重なった。
 偶然かもしれない。いや、偶然なのだろうけれど――それがひどく探偵の気分を落ち着かせる。
「見えないのはどうしようもないが…それでも、そうだな…早ければ明日にでも見えるようになるんじゃないかという気がしてきたよ。このままあんたにそんな疑いを持たれ続ける方が僕には余程堪えるからね」
 位置を探るように伸ばされた手を、探偵は掴んで引き起こしてやる。
 すると珍しく――古書肆は自分から温もりを求めてきた。
「重なったりなどするものか」
 少し怒っているのかもしれない。
「僕を、どうしようもなく落ち着かせる。間違うものか。……あんたの、体温だ」
「京極……?」
「傷付けたならすまない。でも僕にもどうしようもないんだ。ただ…少なくとも暫くはあの記憶に引き摺られなくて済むような気がする。――ありがとう」
 切欠なんていうものは、大抵はその辺に転がっていたり手の内にあったりするもので。
 だからこそ気付けずに――ずるずると無駄な時間を過ごしてしまうものなのかもしれない。
 どちからともなく口付けを交わす。
 夜明けにはまだほど遠いけれど、時が来れば必ず訪れる。黎明なんてそんなものだ。
「――やっと見つけた」
「何を?」
「いつものお前だ」
 密やかに、静かな夜の気配が忍び寄ってきた。
 衣擦れの音。
 甘い息遣い。
 全てが月明かりに溶かされていく。
 黎明の切欠を探り合うように、恐れることもなくただ闇に溺れてみた。
 何となく、根拠など何もないのにそれでも確かな予感めいて――こうして眠りに就いて目が醒めたならきっと、いつものようにいつもとは少し違う朝の景色が見えるような気がしていた。
 そしてその予感が正しかったことを、外の景色が朝に支配された頃二人は知る。
 けれど今はそんな未来よりも切実に。
 ただ、傍に在る今を。

――THE END――

★アトガキと言う名の詫状★

 別館立ち上げ1周年記念で募集しましたリクその2は松永さんから頂戴しました『憑物落としで精神的ショックを受け、目が見えなくなった中禅寺を榎さんが癒す』というお題。の、後編です。
 前編ではとりあえず「憑物落としで精神的ショックを受け、目が見えなくなった中禅寺」までを綴りましたので、この後編はメインであるところのの「(憑物落としで精神的ショックを受け、目が見えなくなった)中禅寺を榎さんが癒す」となっております。
 
 眼科医の薀蓄は捏造です。医学的知識を丸無視して書いてますので御了承下さい。電気製品とか日用品とか年中行事のようなものの時代考証程度はしますが流石にそこまでの気力はありませんでした……。
 実はモータの音も本当は換気扇にしたかったのですが調べたらどうも家庭用の換気扇って昭和35年くらい(だったかな?)に登場したようでちょっと早かったので扇風機にしました。扇風機は原作中にも登場していので問題ないハズ……。
 流星群云々は、書いててカミサマが降ってきたものであります。いつか書きたいですね…学生時代も。
 
 と、いうことで松永さんいかがでしょうか? お気に召していただければ幸いです。



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