西空を焼き尽くした太陽は、いつの間にか姿を消していた。 その代わりに降り立った闇の中、周囲に充満した闇よりも濃く広がる海にひとつ。 邪に魅入られてしまった人々の背中を押したモノは、小さな――あまりにも小さな闇の雫となって。 漆黒の深い闇の中へ。 潮騒に飲み込まれて――消えた。 【闇の雫】 自分の体重を受け止め足跡を刻む、砂の感触が今日はひどく面白くない。潮騒に混じって聞こえる音も耳障りだ。 置き去りにした彼女を彼が振り返ることはなかった。 ただ、前だけを見る。 いつの間にか忍び寄っていた闇が拡張し充満し目に映る世界を取り込んでしまっていたことを再確認させられるだけの面白みのない風景。 不愉快、だった。 誰の所為でもない。けれど割り切れない。自分にはああすることしかできないことも諒解っている。が、喉の奥に引っ掛かるような後味の悪さもまた事実で。 背徳いのとは違う。 後悔などではない。 ただ――それはどうしようもなく彼を侵食するだけ。 どのくらい離れただろう。 探偵はふと足を止める。 潮騒は止むことなく、海は闇に少しずつ侵食されて空との境界も海と空の間を埋める闇との境界も見極められなくなりつつあった。何となく右目を隠したら全く区別がつかず探偵は自嘲する。 潮風が通り過ぎていった。 不意に、波音に砂を踏む音が混じって聞こえ出す。 肩越しに振り返った視線の先に、辺りに広がる闇の中で一際深い漆黒の闇――黒衣の陰陽師の姿があった。 彼の中でまた、少しだけ不愉快が濃度を増す。 「――…何か用か」 この馬鹿本屋。 相手をするのも面倒だと言いたげに端正な顔を歪めて口にした。今会いたくない相手の一人だった。 「随分な挨拶だな」 皮肉っぽく口元を歪め、古書肆は応じる。「待ってたんだよ、あんたを」 漆黒を纏って佇む陰陽師は、さながら闇の雫のように見えた。 砂浜に吸収されることもなく。 海と混じることもなく。 空に消えることもない――絶対的な闇の雫。 「拝み屋の出番はもう仕舞いだろ」 凪いでいる海とは裏腹に、探偵の内部はざわめき出した。 不快感が凝縮して喉許を下っていく。今はあまり人と話をしたくなかった。 彼は中禅寺から視線を逸らす。背を向ける形になった。 「この間唆されたお礼だと、最初に言ったはずなんだがね」 そんなことを言われたような気がする。 他人の内側を覗いたり立て直したりするような真似は自分にはできない。できないから、託した。 お互いにそのまま動かず立ち尽くす。 探偵が視線を逸らした黒い影が先に動いた。 砂を踏む足音。 寄せては返す波の音。 重なり、溶け合い、彼の神経を逆撫でる。 「最後まで、付き合おうと思ったんだが――」 無駄に面倒見の良い憑物落しは動かない探偵の横を通り過ぎ、その正面に立った。 探偵は、まだ、顔を上げない。 「余計なお世話なら帰るよ」 「お前の、そういうところが嫌いだ」 そう言って、陰陽師の肩口に顔を埋める。 箍が外れそうになるのを堪えて、探偵は幾分疲れた声で言葉を継いだ。 「いつも、よく平気だな。お前は」 「狡いから――だよ。多分」 自嘲するように苦笑した 「千鶴さんに恨まれても知らないからな」 「帰りますよ」 「…………」 「冗談ですよ」 可笑しそうに喉の奥で笑われ、憮然として探偵はまた黙り込む。 「あんたがそんな調子じゃあ、周りがみんな困るからね」 「僕の知ったことじゃない」 「でも、あんたは嫌なんでしょう?」 「……本当に嫌な奴だな、お前」 「褒め言葉――として受け取っておくよ」 ようやく顔をあげた探偵は、珍しくバツが悪そうな顔をしていた。 古書肆は心底可笑しそうに破顔して、しかしすぐに笑いをおさめて探偵を見る。 「――行くぞ」付き合うんだろ。 「あぁ」 二人分の足跡が砂浜に残る。 緩慢に寄せて帰る波がそれを消していく。 残るものなんかほんのわずかだ。 変わらないように見えても世界は変化を繰り返して続いている。気付かないだけだ。 一度着替えに帰らないとな、なんて当たり前の言葉がひどく場違いのようで。 なんとなく、終わったんだなと実感がわいてきた。 海岸から平塚署まで歩いて戻る間、無言だったが特に不快ではなかった。 そして平塚署から中野まで、探偵は乗ってきた車に中禅寺を乗せて夜に馴染んできた街並みを抜ける。古書店・京極堂に着く頃には、すっかり宵闇は夜の闇に変貌を遂げていた。 見慣れた「骨休め」の札の掛かった店の前まで眩暈坂の反対側から乗り付け店の前で車を止めた。母屋の玄関に回り中に入ると中禅寺の細君の気配は家の中になかった。 「千鶴子なら雪江さんと夕食を食べに出ていていませんよ」 勝手を良く知った家の中を、いつもの座敷に通される。 灯りの点いていない家の中は、あの海岸の風景のように夜闇に侵食されていた。 しかし人工の光で以てその闇はいとも簡単に薙ぎ払われてしまう。 「少し待っていてくれ。着替えてくる」 そう言って主はお茶も出さずに襖の向こうへと姿を消す。 闇の代わりに今度は静寂が空間を支配していた。耳に焼きついた潮騒が脳裏で繰り返される。 襖越しに聞こえる衣擦れの音が、普段は気にならないこの家の静けさを煽って探偵をまた不快にさせた。 いつものように弛緩して畳に寝そべることもせず。 探偵はゆっくりと腰を下ろすと長い足を持て余したように片方だけ抱き寄せて、そこで頭を支えるように顔を伏せたまま待っていた。 時計が煩瑣い。 猫も、今日は姿を見せない。 面白くない。 本当に、面白くないことばかりだ。苛苛する。 「珍しいこと尽くしだなぁ、今日は」 着替えを済ませて戻ってきた主は気怠そうな探偵の様に意外そうな声で呟いた。 「……遅い」 顔を上げずに不満を口にする探偵は、酷く疲れているように見える。 「重症だなぁ、今日は」 率直な印象を口にして、黒衣を脱いだ憑物落しは後ろ手で襖を閉め乍らこぼした。 「あの時のお前だって似たようなものだったろうが」 しかし、憎まれ口を叩く余裕はまだあるらしい。 少し安堵したように苦笑して、古書肆は「行くんでしょう?」と探偵を促した。 緩慢な動作で探偵は立ち上がる。 しかし、足許に視線を落としたままでその場から動こうとしない。 「京極」 「何だい?」 「…………」 「黙ってちゃ解らんよ。あんたの場合口にしたって解らないことが多いんだから」 「ならいい」 接ぐ言葉を引っ込めた探偵に、古書肆は静かに答えを投げる。 「方法を、間違えただけですよ。きっと」 耳に残る潮騒が一瞬姿を眩ませた。 「或いは――気付くのが、少し…遅かっただけだ」 けれど、喉の奥に不快な蟠りが生まれる。 「あんたの所為じゃない」 耳を塞いでしまいたい衝動に駆られた。 言葉は、いつも不便で肝心なときに役に立たない。 「……嫌な奴だな、ほんとに」 ようやくそれだけを苦々しく口にすると、目も合わせないまま古書肆に背を向け歩き出した。 小さく苦笑とともに溜息を吐き出して拝み屋はその後について行く。 外の景色はいつの間にか、傾いた日に染め上げられた夕焼け色の屋根が眩しい頃合になっていた。 古書肆の先を行く探偵は、ただ黙って歩くだけで目的地を口にしない。だが気に留めた様子もなく、中禅寺は探偵の後に従った。 夜に包まれた街は、探偵の抱えるこの遣り場もなく後味の悪いすっきりしない――言い様もなく持て余しているものなどとは関係なくただゆっくりと流れている。 そんなことが妙に癇に障る。 自分に余裕がないことを探偵は自覚する。 そしてまたひとつ不機嫌の要素を抱え込んだ。 駅に着き、切符を買い求め、改札を抜けてホームで電車を待っているとタイミングよく然程待たされず乗り込むことができた。 車内はひどく空いていて、探偵は端の席に陣取り寄りかかる。 弛緩している姿は珍しくもないが、纏っている空気はいつもとは明らかに違っていて。 ただ静かに古書肆はその隣に腰を下ろし、探偵の沈黙に付き合った。 電車の揺れとアナウンス、流れる車窓の景色は少しだけ探偵の気分を鎮めたよう。 転寝するように目を閉じた探偵は、束の間だけしがらみから意識を切り離した。 不貞寝しているようにも見えて、中禅寺は少し可笑しかった。 探偵が選んだ行き先は、自分のビルのある神田。そこで下りると何も言わずにまた歩き出した。 喧騒が癇に障るのでそれを避けようと路地に入る。 榎木津が案内した先は、居酒屋というよりも小料理屋のような外観のこじんまりとした店だった。下戸な連れに対して彼なりに気を遣っての選択らしい。 カラカラと音を立てて戸を開けると、馴染みの店なのか店主と女将に短く挨拶をしてカウンターの一番端の席に腰を落ち着ける。 珍しいことだらけだ。 らしくない――と言った方が正確か。 「全部任せる」 中禅寺の意向を確認することもなく店主に丸投げして、探偵は出された料理をつまみ酒を煽った。苦笑しながら古書肆は特に不満も述べずそれに付き合う。 自棄酒――というわけではないが、それに近い。 彼は、ずっと…言葉を探している。 それが判ったから中禅寺は急かすこともなくただ待った。 店主と女将が時折心配そうに――いつもと様子が明らかに違って見えるからだろうが―― 視線を投げてきたが、探偵は気付いていないのか気付かない振りをしているのか、まだ、言葉は見つからず沈黙を貫いている。 そして。 「――…僕は」 漸く口を開いた。 「できることはしていたと思うよ」 彼が全てを語る前に、漆黒を脱いだ拝み屋は答えた。 「不便なものだな。不要なものはよく見えるくせに、必要なものはなかなか見つからなかった」 「そんなものだよ、誰でも」 優しく諭すように古書肆は語る。「どうしようもない」 「どうして――」 言いかけて、やめる。 彼女には、自分の言葉は伝わらなかった。 でも、今更仕方がない。 探偵はそう判断して酒とともに言葉を飲み下す。ひどく苦い。こんなに不味い酒は久し振りに飲んだと探偵は苦々しくこぼした。 「やっぱり、言葉は不便だ」 自嘲するように口にする。 彼女には通じなかった。 だから――多分、あぁ言うしかなかった。 けれど。 「お前なら…別の言葉があったのかもな」 「あんたの言葉だから有効だったんだよ。もっとも――」 僕が言わせたくなかった言葉をあんたは言ってしまったようだがね。 拝み屋はそう言って苦笑する。 「そういう意味じゃ僕はあんまり役に立てなかったのかもしれない」 「僕が選んでしたことだ」 「あぁ」諒解ってるよ。 苦笑したままそう応じる。 事件の幕を引いた後はいつもこうだ。 少しの背徳さと。 罪悪感ではないけれど、幾許かの後悔に似た思い。 苦く、遣り場のない――事件の余韻が付き纏う。 その重みのように、探偵は漸く割り切れたのか切り捨てたのか――陰陽師の肩に頭を預けて凭れ掛かった。 「らしくないなぁ、本当に」 「煩瑣い。悪酔いしたんだ」 「なるほど」 偶にはそういうこともあるかもしれないね、と陰陽師は小さく笑う。 「そういうことにしておくよ」 「今回は――久し振りに疲れた」 「堪えた、じゃないのかい?」 「……嫌な奴だな、本当に」 「お互い様だよ」 自嘲するように探偵は苦笑して応じた。 グラスの氷が解けて軽やかな音を立てる。 いつの間にか、自分の中に蟠っていた言葉にできないいろいろなものは溶けて姿を消していた。 「京極」 「今度は何だい」 口にしようとして、やめる。 「これで、貸し借りナシだな」 それでいい。 探偵はいつものように不敵に笑う。 いつもの――見慣れた顔だった。 「そうだな」 「全力で飲み直しだ!」 ゆっくりと姿勢を直し探偵は、急にいつもの様子で女将にあれこれいつもの調子の説明とも言えない説明で気に入った料理と酒を追加で頼む。 また新しい客が現れて、扉の外に広がる夜闇が顔を覗かせた。 隙間から覗いた闇の雫はしかし、店の中を満たすことはできず光に飲まれ遮断される。 それを一瞥して探偵は拝み屋に視線を投げて様子を窺った。 「たまになら――付き合ってやってもいいぞ」 悪戯っぽく笑って見せる。 「じゃあ、憶えておくよ」 拝み屋の仮面をようやく外して普段の古書肆の顔に戻った中禅寺を見て満足そうに、探偵は手にしたグラスを中禅寺のそれと軽く触れ合わせた。 涼やかな氷の音が小さく響く。 そうして改めて口を付けた酒は不味くなかった。 |
――THE END―― |
★アトガキと言う名の詫状★ 初書きの京榎小説はサイトの新装開店祝いに奈緒ちゃんへ。 真壁はどちらかと言うと榎京派なのですが、へたれてるでっかい人はとってもツボなので『邪魅の雫』読み終えた勢いで書き上げました(笑)。 何か――珍しく調子の出ない榎木津さんにえっらい萌えてました(^^*) 多分…ちゃんと京榎になってるハズ。 |
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