雪深い箱根の山奥で僕は、あの日、かみさまに出遭った。

【偽りの言葉 ―後編―】

 あの日出遭った僕のかみさま。
 焦がれるように、家族を友人知人を全て神奈川に置いて。
 遥遥上京し助手を志願してそれを許されて。
 一年と半分が過ぎようとしていた頃、そのかみさまにも弱さがあることを知った。
 気紛れに見せられたそれを、無謀にも預かろうとして。
 捧げた夢の代わりに与えられた哀しい痛みに潰れそうになるなんて考えもせず。
 いつもの時間に起床して、いつものように支度を済ませて出勤した。
 まるで何もなかったように。
 いや、全ては夢で何もなかったのだ。
 乗り込んだ電車の中で自分に云い聞かせ、益田はゆっくりと目を閉じる。
 あの後、探偵が寝息を立てるのを待って身支度を整え聖域を出た。
 跫を殺して事務所も後にする。階段室はもう冬を思わせるほど冷え込んでいた。
 小さく響く自分の靴音を聞きながらビルから離れて駅に向かう。

 いつもと同じ、けれど遅い電車に揺られ。
 いつもと同じ、けれど暗い道を自宅へと向い。

 帰り着いた自分の家で、広げた手のひらに残っているものを探す。
 上滑りするばかりの偽りの言葉で無理矢理に引き受けた、泡沫のごとき儚き人の夢が。束の間揺らいだ神の夢が。
 そこに見えれば良いのになんて、寒寒しいことを、思った。 
 もう一度手のひらを広げて眺めてみる。

 彼はその行為で優しい想いを刻み。
 あの人は同じ行為で哀しい痛みを刻み。

 そして僕は刻まれた痕に、結局、己の卑怯さを知る。 
 だからきっと、広げたこの手に残っているのはそんな愚かさの欠片ではないかとも思う。
 ――それでも。
 下車駅を告げる声に、鞄を掴んで電車を下りた。
 改札を通ってあの場所へ。石造りの瀟洒なビル――榎木津ビルヂングへ。
 階段室の扉を開けて、最上階まで上り詰める。そして。
「おはようございまーす」
 軽やかなドアベルに、いつも通りに発した益田の声が重なった。
「いやぁもうすっかり秋ですねぇ。今朝なんてもう布団から出るのが億劫で仕方ありませんでしたよ」
 軽口を叩きながら、いつも自分が事務用に陣取っている応接用のテーブルに鞄を置いてソファに身を沈めた。
「まったく、君は暢気なものだな」
 奥から二人分の湯呑を盆に載せた和寅が歩きながらぼやく。
「あれれ、どうかしたんですか和寅さん」
「どうしたもこうしたもないよ。今日なんか塵芥出しで早く起きたら明け方珍しく目を覚ました先生にばったり会って、しかも何だか豪く御機嫌が悪そうな顔でおっかないったらない」
「何か怒られるようなことしたんですか?」
「君と一緒にしないでくれよ」
「夢見でも悪かったんじゃんですかねぇ……」
 人知れず上滑りする言葉にこっそり苦笑して、置かれた湯呑の暖かいお茶を一口含んでいつものように世間話をしながら特に仕事もない今日をぐだぐだと遣り過ごす。
 探偵の私室のドアが開いたのは、正午から二時間程経過した頃だった。
「あ、先生」
 無言。
 出て来た瞬間にそうと知れるほどの、殺伐とした雰囲気。
 目が合う。
「おはようございます」
 白白しく、けれどいつものように声を掛ける。
 一瞬、その鳶色の澄んだ瞳を見開いて。
 けれどすぐに不機嫌の中に閉じ込めて。
「何だ、煩瑣いと思ったらバカオロカじゃないか」
 不機嫌そうにこぼして探偵は煙草に火を点ける。
 いつも通り。
 何もなかったように。
 いや――何もなかったのだ。
 あれは自分が見た夢なのだから。
 そうして数日は本当に何もなかったように過ぎて行って。
 けれど少しずつ、何かが綻び出していて。
 一週間が過ぎようとした頃、胃が食事を受け付けなくなってきた。
「益田君?!」
「あぁ、すみません。平気です。ちょっと立眩み……」
 和寅を手伝って事務所の掃除をしていたら、突然目眩に襲われ立っていられなくなり座り込む。
「どうも顔色が悪いなぁ」
「平気ですって。今日ちょっと胃の調子が悪くて朝食食べてないんでその所為ですよきっと」
「だったら余計だ。今日はもう帰って寝た方がいい。どうせ仕事なんてないんだ」
「随分な云いようですねぇ」
「ここで倒れて帰れなくなりでもしたらそっちの方が厄介だろうに」
「大丈夫ですって」
 けれど押し問答の果てに結局和寅に押し切られて早退した。
「風邪でもひいたかな」  
 急に気温が下がったこの数日の陽気の所為かも知れない。
 帰宅して布団に横になると、確かに疲れてはいたようですぐに眠り込んでしまった。
 けれど数日経っても治りはせず、連絡を入れる体力的余裕もなく。
「こんなに続けて休むの初めてだなぁ……」
 見慣れた天井を見上げてこぼす。
「しかも無断欠勤だし」
 でもきっと。
「あの人は僕の心配なんかしませんよねぇ」
 そう考えて自嘲する。
 襲ってくる睡魔。
 浅い微睡み。
 体は癒えないが気怠さに負けて眠りに落ちた。
 少しだけいつもとの違いを抱えたまま、それでも探偵事務所ではほぼいつも通りの日常が続いている。 
「あれ?」
 彼が久し振りに訪ねた時、事務所にはいつもいる秘書兼給仕役の和寅の姿も探偵助手の姿も見当たらず。
「大将一人だけっすか?」
 意外なことに探偵が一人、回転椅子に座ってデスクに頬杖を突きぼんやりと窓の外を眺め遣っているだけだった。
「ん? 何だ鳥ちゃんじゃないか。相変わらず目と目の間が詰まっているなぁ」
「うへぇ、相変わらずで」
「なんだい?」
「益田君に用があったんですが…調査中のようですな」
「知らないよ。下僕の動向を把握するのは神の役目ではないッ!」
 言葉の端に微かな違和感。
 探るように視線を投げる。
 それに気付いて鳶色の瞳がこちらに向く。
 緊張。
 分が悪い。
 探偵は人の記憶を視る。
 自分は――人を観るくらいしか出来ない。
「……鳥は趣味が悪いな」
「辛口ですな」
 小さな呟きが探り合いを打ち切った。
「大将は人が悪いようで」
 探偵がこちら振り返る。
 意外そうな顔。
 笑って応える。
 秀麗な面が苦笑に染まる。
 矢張り、器が――格が、違う。
「云うね」
「何がすか?」
「ふうん……」
 椅子が軋み、探偵が立ち上がる。
「カマオロカは馬鹿なくせに風邪を引いたらしい。和寅が確かそんなことを云っていた」
「それじゃあ仕方がないっすね、出直します。どーも、お邪魔しました」
 何もなかったように事務所を出た。
 背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
 深く息を吐き出して階段を下った。
 駅へ向かって、荏原ではなく益田の下宿先の最寄り駅で下車する。こんな時間帯に訪れるのは初めてかもしれない。
 似たような造りの集合住宅の、一角。
 何度か訪れたことのある扉の前で戸を叩いた。
「誰だろ……」
 気怠い体を起こして玄関へ向かう。
 鈍い頭痛。
 体が重い。
 鍵を開けて、ノブを捻る。
「どーも」
「鳥口、君……?」
「事務所の方に行ったら休んでるって聞いたんで」
「え?」
「あぁ、すみません起こして。寝てていいすよ」
「あの」 
「何?」
 真っ直ぐな目。
 視線を避けるように目を晒す。
「顔色悪いっすね」
 伸ばされた手が頬に触れる。
 反射的に身構えて目を閉じた。
 優しい体温。
 何故か罪悪感に襲われる。
「益田君?」
「え?」
「どうかした?」
 まるで拒絶するみたいな態度。
 いや、無意識に怯えている――の方が近いかもしれない。
「何でも、ないです」
 微笑って、また、偽りの言葉を紡ぐ。
 彼は――鳥口は気付いてしまっただろうか。
「すみません、ちょっと立ってるの辛くて……」
 それでも、更に空しく累積されていく、嘘。
 口を吐いていく虚しい言葉。
 卑怯な自分にはそれが似合いなのかもしれない。

 からまわってばりだなぁ……。

 苦笑に滲んだちいさなちいさなひとりごと。
 受け止めたのは強引な抱擁。
「鳥口君?」
「…………」
「あの、痛いんですけど」
「あぁ…すみません、つい」
 離れる。
 けれど、足元がふらつく。
 片腕を掴まれ支えられて。
「ちょっとごめん」
 横抱きに抱え上げられて、
「え? いいですよそんな」
 抵抗を聞き流されて。
 ゆっくりと、元いた場所――布団の上へと下ろされた。
「少し、眠った方がいいすよ」
 頬に触れた手は矢っ張り優しい。
「具合悪いときって、こう…傍らに人がいた方が落ち着いて眠れるでしょ?」
 何処か翳りのある笑顔。
 多分、彼はあの人に会って。
 漠然と、それでも「何か」があったことを知ったのではないだろうか。
 それでも。
「――…何も、尋かないんですね」
「ん?」
 目を閉じる。
 安堵感。
 いけない。
 自分には過剰なもの。
 そう思うのに。
 睡魔は、何処からともなく忍び寄り。
 意識を乗っ取り夢へと誘う。
 やがて呼吸が穏やかな寝息へと変わり。
 夢を、見た。
 久し振りにあの人に出会う。
 あの日をなぞるような、夢。
 なのに。
 かみさまは偽りの言葉さえ、くれず。

 ――僕は、お前のものにはならないよ(反転)。

 なんて。
 知ってるのに。
 哀しい顔をしてそんなこと云う。
 諒解っているのに。
「――…いじわる」
 優しい牽制。
 けれど痛い。
「それって、僕のことなんすかねぇ……」
 苦笑。
 寝言に問い掛けても勿論返事などない。
 この感情に名前がないのと同じように。
「意地悪、か」
 それって――…
「益田君も、ですよ」
 呟きは穏やかな寝息に掻き消される。
 髪に手を滑らせてゆっくりと梳いた。
 目を閉じ耳を澄ませていれば、この空間だけが世界から隔離されているような錯覚に浸ることも出来る。
「ん……」
 身動ぎして、瞼を痙攣させて益田はうっすらと目を開けた。
「うへえ、すみません起こしてしまいましたかな」
 焦点の合わない目がこちらを見る。
「――…夢を、見たんです」
 寝言のようにこぼされたその言葉に、
「どんな?」
 なんて先を促して。
 不器用に彼が恋い慕う、彼の神を少しだけ恨んだ。


(了) 
 

>>>[後編]を読む
>>>Novels-KのTOPへ
>>>『clumsy lovers』のTOPへ