石造りのビルの階段を、三階にある自分の探偵事務所を目指して上る。その途中で探偵は、不意に痛んだ左目にその端正な顔を顰めて足を止めた。
 薄暗いどころではない闇の中に長く居過ぎた所為だろう。目の奥が疼くように小さく痛む。
 元々不良品だった探偵の目は、時折使い過ぎを警告するように抵抗を示す。
 やや乱暴に手の甲で目を擦ると何とか痛みが引いていった。苦々しげに舌打ちをして、階段を上りきりドアノブに手を掛ける。主の帰還を告げるようにドアに取り付けられた鐘が軽やかな音を立てた。
「あぁ、先生。お帰りなさいやし」
 秘書兼給仕役の和寅こと安和寅吉が、その音を聞きつけ出迎える。 
 そこに視線を投げる途中でふと、電球の灯りと目が合って――…
「せ、先生?!」
 左目に明かりが刺さって痛んだ。思わずその場にしゃがみこむ。
「煩瑣い和寅。目が眩んだくらいで騒ぐな馬鹿」
 今にして思えばそれは予兆だったのかもしれない。しかしその時点では当然――深く気に留めずにいたのだった。

【憂鬱の微睡】

 逗子から戻ってすぐに年は明け、一応実家にも帰り十日間ほど滞在して飽きたので自宅に帰って来た矢先のことだった。
 階段を上る足が重い。
 関節も何だか妙に痛む。
 冷たい空気を溜め込んだ石造りのビルの階段も、いつもは憎らしくすら思うのに今日はその空気の冷たさが何故か心地良い。
 三階分の階段を上りきってようやくたどり着いた探偵事務所のドアノブに手を掛けた。来客を告げる鐘がカランと音を立てる。その音が何故か少し遠い。
「あれ? 先生もうお帰りですかい?」
「これ以上いたら親父の馬鹿が感染る」
 そんなことを毒づきながら探偵は自分の部屋に向かう。
 ――だから、極寒逗子は真っ平御免だと言ったんだ。 
 心当たりは一つあった。年末、断りきれず出向いた逗子。多分――あそこで潮風に当たり過ぎたのがそもそもの原因に違いない。
「先生? どうかしたんでやすか?」
「和寅、煩瑣いからお前少し黙れ」
 敏感に異変を嗅ぎ付けたのか怪訝そうに自分を見る和寅の脇を通り過ぎようとした――その時。
「せ、先生?!」
 膝に力が入らなくなってバランスを崩したところを和寅に支えられる。
「うわぁ、先生ひどい熱ですよぅ」
 慌てた声がやけに遠い。
「耳元で騒ぐな、馬鹿。響いて痛いじゃないか」
「とにかく部屋へ行って寝て下さい。歩けます? 私一人じゃ先生部屋まで運べませんて」
 肩を借りて何とか自室にたどり着くと、そのまま寝台に倒れこむようにして榎木津は意識を手放した。
 それから数日、探偵は熱に浮かされたままほとんどの時間昏々と眠っている。
 気紛れでしか行動しない探偵が外出しないため、来客の少ないこの事務所のドアベルは久し振りにその軽やかな音を響かせた。
「あぁ、こりゃ本屋の先生。お久し振りです」
「あけましておめでとう。ところで――榎木津はいるかい?」
「はぁ、いるにはいるんですが……」
「何だい? まさかまだ寝ているのか?」
 事務所の壁に掛かっている時計はもう14時を過ぎている。
「呆れた男だなまったく」
「寝てるのは寝てるんですがね」
 風邪ひいて熱が下がらないんですよ。
 別に小声で話すことでもないだろうが――和寅は榎木津の耳に触れることを懸念するかのように声を落としてそう告げた。
「御実家から帰ってきてすぐ倒れちゃって。お医者も呼んで薬もいただきましたがほら、寝たっきりで食事もろくに摂らないもんだから飲まないし下がらない」
「起こせばいいじゃないか」
「先生の寝起きの悪さは本屋の先生だって知っての通りでして。特にああいう時に入ろうものなら何が飛んでくるやら」
 事情と、探偵の荒れ様の原因も瞬時に悟って古書肆は苦笑する。
 目を閉じていても、あれは視えるらしい。
 そして風邪で熱も高いようだから、通常の感覚器が受容する情報量が減っている分――常人には見えないものの方が鮮明に視えるのだろう。
 だからか、熱を出した時の探偵の荒れ様はひどい。眠っているなら随分マシな方だ。
「一応あんなのでも友人だからね。神社の方も落ち着いてきたから年始の挨拶に来たんだが――これじゃあ仕方ないな。また出直すよ」
「そんなぁ、ちょっと留守番してて下さいよぅ。先生があんなだから買い物にも行けなくて困ってたんです」
「あぁ、じゃあ――少し休ませてもらうことにするよ。行っておいで」
「すみません、それじゃあちょっと行ってきやす」
 慌しく支度をして出て行く後姿を見送って、古書肆は応接用のソファに腰を下ろした。
 途端に静寂が訪れる。ビルの外の喧騒が、秒針の音に混じり出した。
「難儀な男だなぁ、まったく」
 もう一度苦笑しながら呟いて、ソファから立ち奥にある探偵の私室に向かう。
 二度程ノックしたがやはり返事はない。
「榎さん、入るよ」
 それでも律儀な古書肆は一応断りを入れてドアを開けた。
 凛と冷え込んだ部屋は人工の光に照らされている。闇の入り込む余地のないくらいで、彼は一瞬目が眩みそうになった。
 暗がりが嫌なのだろう。徹底している。
 寝台には投げ出されたビスクドールのように、探偵が辛そうな顔で横たわっている。
 その脇に歩み寄って、そっと顔を覗き込んだ。
 視界を遮蔽するため無意識にずらしたのか、本来額に乗っているはずの白い濡れタオルは瞼を覆っている。
 手を伸ばして触れるとほとんど渇いていたのでそのまま剥がして再び氷水に入れて冷やした。小振りの桶には水が張られており、氷がいくつか落とされて冷えている。
 何だかんだ言いながら、和寅はちゃんと世話を焼いていたらしい。寝台の脇には水差しとグラスもあるし、冷えきってしまっているがお粥も用意されている。少しだけ口を付けた形跡もあった。
 冷たい水を十分に含ませて緩く絞る。水が水面に落ちる音が不規則に響いた。
「ん……」
 吐息混じりの声が洩れる。
 振り消えると、急に射した明かりが嫌だったのか形の良い眉がぴくりと動いた。瞼が小さく震え鳶色の瞳が細く覗く。
「すまない、起こしてしまったかい?」
 見開かれた目はまだ虚ろで、焦点が合うのをただぼんやりと待っていた。
「きょー…ごく?」
「年始の挨拶に来たら和寅に留守番を頼まれてね。ひどい風邪だと聞いたが――」
「あぁ、まったく――ひどい、気分だ」
「――…逗子の、所為かい?」
 もしそうだったとしても肯定はしないだろう。
「忘れた」
 やはりそうか。
 予想通りの答えに苦笑する。
「あんたの目も厄介だなぁ、しかし」
「タオル」
「僕の顔も見たくありませんか?」
「……目が、痛いだけだ」
「なら、そういうことにしておきましょう」
 冷たい水を含んだタオルを手渡すと乱暴に目頭を覆い隠した。
「まったく、不良品なら不良品らしくしていればいいのだ」
 苦々しげに口にする。
 古書肆は苦笑すると寝台の脇に腰を下ろして濡れたタオルに手を伸ばした。
「これじゃあ憂鬱で死んでしまう」
「まさか。そんなことで死なれちゃ僕が困るよ」
「…………」
「何です?」
「お前の所為なんかじゃないぞ」
「生憎、そこまで自惚れてません」
「でもお前の頼みじゃなかったから極寒逗子なんか行かなかった」
「本当に――解らない人だなぁ、あんた」
 柔らかく微苦笑して、中禅寺は榎木津の目を覆う無粋なタオルを奪い取る。そして作り物のような鳶色の目を覗き込んだ。
 時間の流れが不意に滞る。
 沈黙が何処からともなく忍び寄る。
 探偵はゆっくりと目を閉じた。
 その目を中禅寺は自分の手で覆う。
「冷たい」
「さっき、氷水の中に突っ込んだばかりですからね」
「でも」この方が落ち着く。
「着替えて、少し水分を摂ったらどうだい?」
「そんなことは後でいい。やっと、憂鬱の微睡から解放されそうなんだ」
 静まった部屋に聞こえてくるのは同じように遠巻きの喧騒。
 瞼に触れるのは同じような冷たさ。
 けれど、人の手を介している分安堵感がある。
「……京極」
「あんたが眠るまではいるよ。特に予定があるわけでもないからね」
 そのくらいの償いはするつもりで留守を引き受けたんだ。
 言葉にはせず心の内で密やかに呟く。  
「だから、また少し眠るといい。憂鬱の微睡じゃあ物足りないのだろうしね」
「そう、だな……」
 寝つきのいい探偵は、体調不良も相俟ってほどなく規則的な呼吸を立て始めた。
 眠りに落ちたのを見届けて、もう一度タオルに冷たい氷水を適度に含ませ目頭を覆うように額に乗せてやる。
「具合が良くなった頃また来るよ」
 毛布を方まで引き上げてやり、部屋を後にした。
「あぁ、先生そっちにいらしたんですかい。探しましたよ」
「すまないね。ちょっと様子を見ようと思っただけだ」 
「いえ私こそ助かりました。――それで、うちの先生は大丈夫で?」
「また眠ってしまったよ。次に起きたら着替えると云っていたから着替えを用意しておいてやるといい。あと、やはり何か少し食べさせて薬を飲ませた方がいいね」
「当たられるのは嫌なんですけどねぇ」
「多分、大丈夫だよ。その次の保証はし兼ねるが」
「へ?」
「じゃあ僕は帰るよ」
 また。
 カラン、と軽い音色が客を送り出す。

 憂鬱の微睡じゃない眠りを。
 束の間でもいいから安らぎを。
 安息の眠りを貪れる時間を。

 綴じたドアを振り返り、石造りのビルの天井を仰いで願う。
「神の攪乱、か」
 小さく笑って階を下った。
 明り取りの窓からは、傾きかけた冬の陽差し込んでいる。
 目を細めてそれを見つめながら、それがあの男の憂鬱を優しく焼き尽くしてくれることを願った。
 
――THE END――


★アトガキと言う名の詫状★

 同人小説としてはベタなネタの一つ、風邪ネタです。
 風邪ひいてちょっと弱気な榎木津さんが書いてて楽しかったvv
 全てを口にしなくも会話が成立する二人のやりとりがとても好きです。弱さも強がりもお互い見透かしていて、それでいて受け入れたりすかしたりしてるのがたまらない。

 狂骨と鉄鼠の合間を捏造。もとい妄想。 



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