夢中で走って眩暈坂を駆け下りると、案の定半ばで軽い眩暈を起こした。
 触れてはいけない部分に触れてしまった。
 しばらく、京極堂に来るのはよそうと固く決める。
 振り返った先にはもう、古書肆の屋敷は窺えない。
 そのことに少しだけ安堵して、深呼吸を一つ。
 以前云われたようにできるだけ足許だけを見て、関口は自宅へと坂を下っていった。

【背徳の味 04】

 夕食を済ませ、お茶を啜りながら妻の話に耳を傾ける。
 この前雪江さんと見てきた映画が良かったとか、少し遠くまで買い物に出掛けたら好みの陶器を扱う瀬戸物屋を見つけたとか、いつも通り――詮索の言葉など欠片も口にせず楽しそうに話す。
 こうした時間は愛しいと思う。
 だから気が咎めたけれど、決断を覆すことも出来なかった。
 会話の切れ目に千鶴子が茶葉を入れ替えようと中座するのを止める。
「ちょっと出掛けてくる」
 立ち上がってそう云うと、案の定意外そうな顔をされた。
「こんな時間に…ですか?」
「あぁ。どのくらい時間がかかるか僕にも検討がつかないから…すまないが、先に休んでいてくれ。もしかしたら今日中に帰れないもしれないけど、朝食までには帰るから心配しなくていいよ」
 背にしていた床の間から上着をとって羽織る。千鶴子は――多分その意図を察していると、根拠はないが確信があった。
 自分の狡さに心底嫌気がする。
「眩暈坂は足場も悪いですし、この時期は霜なんかで滑りますからあまり遅くなるようでしたら無理なさらないで、明るくなってから帰って来て下さい」
「千鶴子」
 すまない。
 そう口にしかけて、
「ありがとう」
 代わりに短く足した。
「行って来るよ」
 身を屈めて唇が触れるだけの口付けをする。
「さっきのお礼だ」
 唇の端でだけ笑って廊下に出た。
 冷たい空気に思考が少しだけ冷めてくる。真っ直ぐ玄関に向かって下駄を履き、カラカラと音を立ててドアを開け閉てし外に出た。
 冬の凛とした空気に気分が静まっていくのが解る。
 吐いた息は白い靄となって月明かりに吸い込まれて消えた。眩暈坂をゆっくりと下り、駅へと暗い夜道をたどる。
 中野駅で切符を買い求め、人気のないホームで電車を待ち、がらりと空席ばかりの目立つ電車に揺られて神田は神保町を目指した。
 下りた駅の正面の通りには、まだちらほら明かりが見える。
 ふと目に付いた公衆電話から、一応事務所に電話を入れてたが矢張り留守だった。最近は毎夜ふらりと飲みに出掛けて遅くに帰ってくるらしい。益田も様子がおかしく困ったものだと和寅から少々口を聞かされた。
 吐き出した溜息が闇に溶ける。
 まだ明かりのある駅前を離れ、道を路地へと逸れて目的地を目指した。
 擦れ違う風の冷たさが身に染みる。見上げた空では月が薄雲に溺れてもがいていた。
 凍える夜にひどく馴染む、石造りのビルにたどり着いたのは22時を少し回った頃。懐中時計の代わりに煙草とマッチを手にとって、紙巻の先に火を点した。
 立ち上る煙を目で追っていく。
 頼りない細い糸は天に届く前に闇に飲み込まれる。
 燻らせた紫煙は少しだけ自分の内側をクリアにしてくれるような錯覚を与えた。
 時間はただ無音で横切っていく。
 足許には煙草とマッチの残骸。
 待ち人はまだ来ない。気持ちの端に浮かんだ諦めを、追い出すように息を吐く。
 また、誰かの跫が近付いてきた。
 最後の煙草の紫煙を深く吸い込み闇の中に送り出す。
 その跫が、随分と近くで――不自然に、やんだ。
「――…京…極……?」
 耳慣れた声に顔を上げる。
「何してるんだ? お前。そんなところで」
「随分な挨拶ですね」
 最後の煙草を足許に落とし踏み消した。「こんな時間に――こんなところである用なんかそうそうないよ」
「…………」
「いくら強いと云ってもそんな無茶な飲み方を続けたら身体に障る」
 不機嫌そうに端正な眉を寄せて、視線を古書肆の頭の少し上の辺りに据える。
 それから足許に視線を移動すると、散らかった吸殻とマッチの残骸が目に付いた。かなり長い時間そこでそうして待っていたのは明白だった。
「馬ッ…鹿じゃないのかお前――」
「他に、方法がなかったのだから仕方がないよ。僕だってできるならこんなのは御免だ」
「何のつもりだ」
「狡いのは解ってるんだ」
 すまないと、謝るのは許して欲しいからで。
 どちらかを選ぶことは結局できなくて。
 二人を傷付けている事実を知りながら、必要とする罪も解っていて。
 それでも。
「許さなくていい」
 ゆっくりと、距離を、詰める。
 作り物めいた鳶色の目に、怪訝そうな色が浮かぶ。
「詰ってくれて、いい」
 肩口に頭を埋めて懺悔する。
 狡さを糾弾してくれて構わない。
 痛みくらい、対価として負う覚悟はある。
「それでも」
 肩を掴まれ引き剥がされて。
 言葉を封じるように唐突に口付けられた。
 こうして、いつも、許されてしまう。謝罪を、神は頑なに拒む。
「お前の所為だけじゃない」
 狡い。
 そんなのは卑怯じゃないか。
「解ってて、必要としてるのは僕だって同じだ」
 真摯な声は小さくそう呟く。
「冷たいな…お前。何時から待ってたんだ?」
 腕の中に閉じ込めて、体温を分け与えるように背中を摩った。
 あの日、些細な嫉妬から起こした自分の気紛れにここまでするなんて思ってもみなかった。
 こんな不器用な古書肆をひどく愛しく思う。
「許せなくなる瞬間は確かにあるよ」
 吐き通せない嘘は、守れないことが判っている約束を交わすのと同じくらい罪だ。
 誤魔化し切れるほど能弁に語るのは性に合わない。
「この先――詰ることだってきっと、ある」
 飾っても仕方がないから思ったままを口にした。
「それでも」
 手放せないのは自分だって同じだ。
 人目を気にするほど人通りのないこの場所では、二人の影しか判らない。
 罪悪感を噛み締めるようにしている顔を見下ろして、ゆっくり――唇を触れ合わせた。
 この背徳の味は、だから、二人同じく背負った罪の味だ。
 離れる唇を何処か虚ろな目で古書肆が見詰めている。
 探偵は柔らかく微笑い、額に、更に小さな口付けを落とした。
「お前は、もう少し自分を許せ」
 冷え切った頬に手を滑らせて、告げる。「でないといつか胃に穴が開くゾ。千鶴さんに余計な心配掛けるのは不本意だろお前」
「それは――」
「つまらないことを考えるな。あんなことくらいでお前を見捨てたり切り捨てたりできるほど割り切れた思考回路は生憎持ってない。持ってたらお前が千鶴さんと結婚した時点で終わっている。こんな今なんかあるはずがない」
 確かにそうなのだろうけれど。
「人を許すのは僕の役目じゃないよ」
 それは――神の領分じゃないか。
「頑なにも程があるぞ、お前」
 探偵は、呆れたように云いながらも苦笑する。
「神が孤高なのは死神だって同じだ。それに自分で思ってるほど狡くなんかないぞ、お前。多分――僕のが狡い」
 こうして困らせ追い詰めることになるのなんか最初から解っていたことだった。
 あの時点で――彼が結構した時点で終わらせてやらたらきっと、ある意味楽だったのだろうけれど。
 手放すにはその場所はあまりに甘美で。お互いが選んだ立ち位置は孤独過ぎて。
 そんな決断を選べるはずもなかった。
「冗談でしょう?」
「僕はいつだって本気だッ」
 こぼれた笑み。
 肩の力が抜ける。
 どちらからともなく重ねた唇。
 有害な煙の残り香と、それ以上に甘美な――背徳の味。
「電車、もうないんじゃないか?」
 離れた唇は唐突に現実を突きつけた。
「ないでしょうね」
 それが何だか可笑しくて、苦笑混じりにそう答える。
「帰れないだろ? お前」
「帰れませんね」
「どうするんだ?」
「千鶴子には云って出て来ましたよ」
「…………」
「今夜くらい、僕の時間はあんたに預けるよ」
 古書肆は、淡い表情でそう答えた。
 珍しく、探偵が戸惑いを見せる。
「いいのか?」
「いいよ」
「知らないぞ」
「後悔なんかいつだってしてますよ」
 そう紡ぐ唇に一瞬自分のそれで触れて。
 背徳の味の余韻に浸りながら、事務所へと続く階段に向かって歩き出す。その後を、古書肆はゆっくりと歩いた。
 二人分の靴音が天井に吸い込まれる。
 見えもしないそれを目で追うように見上げれば、明り取りの窓から月が見えた。
 雲に溺れていた月は、再び雲間に消えていく。その様は、結局この背徳の味から逃れられない自分達のようで何だか可笑しい。
 闇に紛れて逢瀬を重ねる二人を見逃すように、月は雲でその目を覆い深く夜へと沈んでいった。


――THE END――

★アトガキと言う名の詫状★

 そんなこんなで2007年のバレンタイン話は完結です。一話完結の予定が不意の閃きから連作になりましたが、いろいろなキャラを登場させることができて楽しかったです。口調は難しいですけどね……。
 お互いの、その立ち位置故に抱えているものが解りすぎるほど解るから、結局離れられなかったからこその今の葛藤みたいなのが書きたかったんです。書きたくなったというか。
 二人の間には、「好き」とか「愛してる」とか割り切れた感情よりもっと切実で痛くてもどかしい――呼びようのない感情があって。
 その断ち難い絆を信じ切れなくなったり試したくなったりして傷付け合ったりもして。
 それでも、そんな全てを許容し合いながらお互いがお互いで在り続けるためにも生きてるといいと思う真壁です。



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