あれから暫く中野の街を彷徨うように当てもなく歩き、結局そのまま帰ることもできずに道を引き返した。
 直接家を訪れる期にもなれなくて、石段に落としてきた花弁の手紙に主が気付いたかだけ確かめようと――珍しく自分に言い訳をするような理由をつけてあの場所へと引き返す。
 新緑の森の奥の聖域、武蔵清明社へ探偵は足を向けた。
 
【花弁の手紙 ―後編―】

 一輪挿しに活けた桜の小枝は店の帳場の机に置いた。
 石段の途中にまるで置手紙のように落ちていたそれの送り主はもしかしたら。
 着想を馬鹿げていると思いながら拭い去ることも出来ず、下げたばかりの骨休めの札を店先に掲げて再び春の陽の中に出た。
 先刻よりも少しだけ西に傾いた太陽の下、新緑の眩しい小さな中に佇む神社に向かって歩く。石段は丁度木陰になっていて、静謐な空気を抱え込でいた。
 その先が聖域であることを主張しているようでいて、来る者を拒絶するような冷たさはない。ただ凛としてそこに在り、来訪者に束の間の安らぎを与え気分を落ち着けさせる場所だ。誰にも邪魔されず考え事をしたいときなどには自然と足が向く場所――…。
 境内に敷き詰められた玉砂利に踏み込めば跫が立つ。
 妻と昼食を摂りながら眺めていた桜木の前に、先客の姿があったが振り返る気配はない。
 そのまま足を進めると、視界の隅に入った賽銭箱の上に新聞紙に包まれた生花が見えた。側に寄って手に取ると、咲いたばかりの桜が覗いていたので中禅寺は自分の着想が事実だったのだろうと確信する。
「矢張り…あんただったのか」
 男は振り返ろうともせず、ただ、早咲きの桜を見上げていた。
「ここは賽銭箱だ。花なら僕か千鶴子に渡してくれたまえ。でないとそのまま枯れてしまう」
「構うものか。もう…必要ない」
 桜の束を手にしたまま、男の半歩後ろまで歩み寄る。
「花に罪はないよ」
「――よく判ったな」
 跫が止むのを待って、自嘲のような笑みを唇の端に乗せて来訪者は口にした。
「桜の小枝が一つ落ちていたからね。安直だとも思ったが――他にこの時期もう桜が咲いているような場所を僕は他に知らない」
「探せばあるだろ」
「えぇ。でも、ここを訪れる理由まで考えるとかなり限定される」
 漸く振り返った相手は古書肆が手にした桜の束を一瞥すると、また肩越しに振り返って桜木を仰ぐ。
「結構堪えるな。あぁいうのを目の当たりにするのは」
 昼目にした情景を思い出す。
 あの時、確かにここは聖域だった。
「榎さん……」
「謝るなよ? 別に悪いことしてないだろ、お前」
 憮然とした言葉はしかし、優しい。
 言葉を探しあぐねて沈黙が訪れると、榎木津は小さく独り言のように口にした。
「知らなかった」
 視線の先には早咲きの桜。
「昨年は…来なかったからね」
 暫く見たくないと思って昨年の春はこの場所を――桜を避けていた。
 その間にこの木は一足早く葉桜を過ぎ、すっかり青葉になってしまっていた。
 房総の、あの屋敷を埋め尽くすような桜の庭が脳裏を過ぎる。
「まだ引き摺っているのか? お前」
「花に罪はないよ」
 同じ科白を、今度は自戒の言葉のように口にした。
 確かに桜は昨年の凄惨な事件を思い出させるし、思い出したくもない戦時中に端を発していた伊豆の事件のこともちらつかせる。しかし引き摺っていると云えるほどそれらが自分の中で燻っているということもない。
「桜には縁がないらしいな。――お前も、僕も」
「あぁ、まったくだ」
 顔を見合わせて苦笑する。
 そして不意に、探偵は古書肆の肩口に顔を埋めた。
 彼と細君の仲を壊したいわけではない。
 けれど目の当たりにするのは堪えるし、踏み込めない領域を知るのは辛い。
 矛盾しているのは判る。それでも――欲してしまう。
「時々、気が遠くなるよ」
 いつまで続くのだろうかと考える。
 けれど手放すこともできない。
 躊躇っていた手を、古書肆は探偵の背に回した。
「すまない」
「何にだ?」
「あんたを、解放してやれないことに」
「なら、謝る必要なんかないだろ」
 回された腕をゆっくりと解く。
 そして、俯かせていた顔を上げた相手の唇を奪った。
「お互い様だ」
 いつものように不敵に笑う。その方がこの男には似合っている。
「そうやって考え過ぎるからお前はいつも不幸そうな顔になるッ!」
 額を指先でとん、と弾く。
 忌々しそうな顔をして、何か云いたげに古書肆は探偵を睨んだ。
「余計なことを考えるな。お前は猿とは違うからそのくらいで地に足が着かなくなるなんてこにはならないから安心しろ」
 声音は突然柔らかくなり、榎木津は穏やかな顔をして続けた。
「僕は神だからなッ! そんなことくらいでへこたれたりしないのだ」
 快活に云い放ち、桜から離れるように歩き出す。
「こんなところで油を売っていないで本を売ったらどうだこの馬鹿本屋。千鶴さんに黙って店を開けるなんて気付かれたらびっくりするぞ」
「まったく…勝手だなぁあんたは」
 手にしたままの、花弁の手紙のごとき桜の束を覗き込んで苦笑する。
「桜は有難く頂戴するよ。流石に神社の木は切れないからなぁ」
 探偵の後ろを歩きながらそう背中に向かった言葉を継いだ。
「もっと欲しければ家にあるから持って来てやってもいいゾ」
「矢っ張り屋敷の庭木だったんだな」
「…………」
「図星かい?」
「京極」
「なんです?」
「石段の桜は――」
 落ちていたのではなく、気付くか試したくて落としたものだと云ったらどんな反応をするのだろう。
 そんなことを思って、けれど、口にするのはやめる。
「わざと、落としたんだろ?」
「……嫌な奴だなぁ、お前」
 石段の手前で立ち止まり、肩越しに振り返って不満そうな顔で古書肆を睨んだ。
「寄って行くんでしょう? まったく、商売あがったりだ」
 そう毒づきながら探偵を追い越し石段を下る。
 またひとつ、花弁の手紙が手許を離れ探偵と擦れ違い風に舞った。何処かへと春を告げに行くそれを、二人で何となく見送る。
 再び歩き出した二人分の跫は新緑に吸い込まれて消えた。
 優しい春の気配に心の澱もいつの間にか消えたような気がした。


――THE END――


★アトガキと言う名の詫状★

 予定を変更してお届け致しました【花弁の手紙】こちらは後編です。これにて完結。
 お互い両想いなくせに、千鶴さんに遠慮して焦れったい状態に陥っている二人が割と好きです。相手を大切に想うほど、余計京極と千鶴さんの夫婦の関係が壊れないように京極も榎さんも気を遣うから行き違ったりもどかしい想いしたするハメになるのですがそれが京極同人書く楽しみでもあったり。

 愛妻家の中禅寺を貫くと、どうしても神に我慢を強いる部分が多いのですが――榎さんはあれで優しい人だと想うので普段はその捌け口として無茶苦茶やってるんじゃなかとん考えたら萌えるなぁ、とか思っていたりいなかったり。
 季節ものなのでとりあえず、日本から桜が散りきる前に脱稿できて良かったデス。 

 差出人も宛名も記されていない花弁の手紙は春の穏やかさを。


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