まだ、唇に残っている。
 あの日、秋雨と共に降ってきた、あの。

【奇蹟の余韻】

 いつも通り振る舞うことは、それを意識して行おうとした途端難しくなる。無意識に行っているからこそいつも通りなわけで、意識してしまえばそれはもういつも通りではなくなるからだろう。
 そんな揚げ足取りのようなことを考えながら、閉めたドアに背を預けて何となく足元に視線を落としていた。
「あぁ、中禅寺か。随分遅かったようだけど……」
 内向的なルーム・メイトは矢張り今日も部屋で過ごしていたらしく、帰るなりおずおずと声を掛けてくる。
 脈が、まだ少し速いだろうか。
 不思議と、雨に濡れた冷たさは感じなかった。むしろ顔は火照っているような気さえする。彼と別れて自分の部屋に戻り、日常に復帰した途端の自覚。
 そっと、指先で唇に触れてみる。
 夢、だったようにも思えた。
 けれど。
「……中禅寺?」
 はっとして顔を上げるとむしろ、自分を呼んだ関口の方が驚いた様子を見せる。
「な…何だい?」
「何だいって――呼んだのは君だろう?」
「そ、そうだけど……」
 言葉を濁すと途端に口篭った。口下手な彼にはよくあることなので再び口を開くまで――彼が口にすることの考え纏めるまで――暫し待たされる。
「その」
 歯切れ悪く、彼は口を開いた。「濡れているけど…外出していたのかい?」
 彼の俯きがちな視線をたどると自分の足元に行き着いた。よくよくみれば玄関でよく拭かずに上がって来たので小さな水溜りが生じている。
「あぁ、ちょっとね」
 云われると、今更ながら少し肌寒さを覚えた。
 そして、小さな嚏をひとつ。
「少し、冷えたのかも知れない。先に風呂を済ませてくるよ」
 いそいそと着替えやら風呂の支度を整えて浴場に向かう。同じように出掛けて雨に降られたらしい寮生が彼と同様に体を温めに訪れていたけれど、共に雨に濡れた榎木津の姿はその中にはなかった。自分より先に来たのかもしれないし、着替えだけ済ませて食堂に向かったのかもしれないと湯に浸かりながら考える。
 人心地付いて部屋に戻る頃には夕食を済ませて戻って来る寮生も多く、中禅寺は荷物を置いて関口とともに食堂に赴いた。
 矢張り入れ違いになったようで、食堂はがらんとしており彼の――榎木津の姿は見当たらない。
 食事を済ませて当たり障りのない話をし、部屋に引き上げそれぞれ勝手気儘に夜の時間を過ごす。中禅寺はいつものように、図書室で借りてきた本に目を落としていた。
 規則的にページを繰っている手が今日は時折止まる。雨音はまだ途切れることなく続いており、意識を、あの時間へと引き戻した。無意識に、親指が唇をなぞる。
 本を読む手は気付けば何度となく止まり、集中出来ないために内容も入ってこない。
 溜め息一つ吐いて諦めて、その夜はいつもより少し早めに眠ってしまうことにした。
 そして翌日。
 珍しく、一日を通して帝王こと榎木津礼二郎と校舎で擦れ違いもしなかった。彼は放課後の図書室にも現れず、本当に、一日に一度も姿を見掛けないまま夜を迎えることになる。
 約束をしていたわけでもないし、これまでにも気紛れに姿を見せないことや一度も顔を合わせずその日が終わったこともあった。だから、特に気に留めずに一日を遣り過ごした。
 けれど。
 翌日も、その次の日も同様に榎木津の姿を見ないまま終わり。
 少しだけ、不安が脳裏を過ぎる。
 今日もまた読みかけの本に集中できないまま栞を挟んでパタリと閉じて枕辺に置き、中禅寺は片膝を抱き寄せた。
「まったく、あの人は何処まで僕を振り回せば気が済むんだろう」
 小さな呟きは同室者の耳にも届くことはなく。
 その日も、早めに休むことにしてまた新しい一日を迎えることとなった。
 何処か上の空のまま授業は終わり、放課後を迎える。
「今日も、まだ来てない…か」
 いつもの席に腰を下ろす。その向かい――いつも榎木津が当たり前のように現れて座り昼寝をする場所は、今日も見通しが良くて。
 時折、視線を上げて空席を見つめていた。
 無意識に、親指で唇をなぞるのがいつの間にか癖のようになっている。
 心の奥底に息づいて、締め詰めるように存在を主張しているこの想いは何なのだろう。
 確かなのは。
 まだ、唇に残っている。
 あの日、秋雨と共に降ってきた、あの。
 奇跡の余韻がそれを齎したということくらい。
「本当に、人を振り回すのが好きだな…あの人は」
 優しい苦笑をひとつこぼして中禅寺は席を立った。読みかけの本を棚に戻してその足で図書室を後にする。
 榎木津を探して校舎を彷徨う。大抵、彼は喧騒の中心にいる。
「……奇妙しいな」
 校舎は不思議と静かで校庭にもそれらしい賑わいの気配はない。
 ならば。
 屋上へ足を向けた。
 時折、夜中ふらりと現れて月見に付き合わされる場所。
「こっちじゃないのかな」
 別の棟へ向かったものの、屋上は全て空振りに終わる。
「ここで最後、だけど――」
 西から橙色に侵食されている空が頭上に広がるばかり。
 擦れ違う秋風は心地良く、ほんのり汗ばんだ肌を冷やして何処かへと消えた。
「いない、か」
 呟きも風に攫われていった。
 目を閉じて、風に当たりながら少し考える。
「あの人がいそうな…まだ探していないところ……」
 他に。
 目を開く。
 見渡せば夕暮れに沈み始めている街。
 その中に。
 あの。
 奇蹟が降って来た場所が、見えて。
「真逆」
 駆け出して、階段を駆け下りた。
 昇降口へ急ぎ、靴を履いて校舎から飛び出し校外へと急ぐ。
 予感。
 いや、むしろ直感に近い。
 自分には判る。
 彼はあの場所にいるという妙な確信が自分を急がせる。
 何人か、出掛けていた同級生と擦れ違った。
 挨拶も変わさず、不思議そうに自分の行く先を視線で追う彼らをそのままに中禅寺はただ走った。
 横道に逸れて少し奥まった場所。
 所所塗装が剥がれた朱い鳥居が見えてくる。
 無人になってそう古くはなさそうな神社。
 石段を駆け上り詰めて、やっと。
「おぉ、やっと来たな」
 勝ち誇ったような顔で、肩越しに振り返るなり、笑う。
「待ち草臥れたぞ」
 彼がいた。
 ここ数日の間ずっと自分を振り回していた本人はそこに佇んでいた。
「如何いう心算ですか? まったく――」
 詰って攻めて真意を問い質したいのに何故か、如何してもそういう表情を作ることが出来ない。安堵感にも似た想いが邪魔をする。 
「何処まで僕を振り回せば気が済むんです? 彼方は」
「決まっている。そんなの――」
 視線が重なって。
 目を奪われる。
「ずっとさ」
 風が攫って行った声。
 自分に、残して行ったのは、ざわめき。
 ゆっくりと目を閉じた。
 あの日降って来た奇蹟の余韻を、まだ、唇が憶えている。
「嫌われるかも知れないと思ったのだ」
 近付いてくる足音に顔を上げれば見惚れそうになるほど綺麗な淡い笑みを浮かべて榎木津はそう口にした。
「でもずっと…あの、奇蹟みたいなものの余韻が離れないのだから仕方がない」
「それは」
 自分も同じだ。
「だから、待つのは苦手だけど待つことにしたのだ」
「僕は、あんたに避けられてるのかと思って少し焦りましたよ」
「うん」
「それに、嫌だったらあの時蹴り倒してます」
「ははっ」
 そんな中禅寺の反応は想像出来なくて、榎木津は何だか可笑しくなった。
「それはいい」
「良くありませんよ。振り回された僕は迷惑してるんです」
「ああ、すまない」
 素直に謝られて、中禅寺は言葉を詰まらせた。
 予想もしていない言葉の登場に返す言葉を見失う。
「じゃあ、試し合いはもう仕舞いだ。お前と鉢合わないように過ごすなんて真似は如何にも肩が凝っていけない」
「勝手な言い分ですね」
「いつも通りに、僕を連れ戻しに来たんじゃないのか? お前」
 図星だ。
 認めるのは少し癪だけれど。
「まったく…腹の立つ人ですよ、彼方は」
「自分を振り回すからか?」
「……御想像にお任せします」
「らしくないな、そんな言葉で逃げるなんて」
「どうとでも」
 強引に、けれど自然に榎木津の手を掴んで引き返す。
「ほら、帰りますよ。――榎さん」
 あの日のように手を引くのは、しかし自分の方で。
 奇蹟の余韻をなぞるように、学校への道をたどる。
「待て」
「え?」 
 中禅寺追い越して、引っ張っられていた手を引っ張った。
「こっちの方が落ち着く」
 待って、試して追い駆けてたどりついた、奇蹟の余韻は互いの手のひらの中。
 もう一度振ってくる日を何処かで願いながら。
 秋の夕暮れに染まった空を背負い、日常に帰るこの瞬間もまた。
 奇蹟のようにひどく愛しかった。


    
(了)


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