気付けばその目が探していた。
 あの日、舞い降りてきた、奇跡を。

【奇蹟の再来】

 放課後の図書室の、片隅。
 窓際で陽当たりも良いその読書スペースはしかし、奥まった場所にあるため図書室をよく知る生徒にしか知られていない。
 そこへ、授業後真っ直ぐ向かって来た人影が先客の姿を認めて小さく笑んだ。
 陽だまりの中で机に突っ伏して、先客はただ惰眠を貪っている。その、図書室を冒涜するような姿に腹を立てたこともあったがそれも今は懐かしく思ってしまうくらいには遠く、慣れて久しい。
「――…遅かったな、今日は」
 跫に気付いて顔を上げたのは、学内でその名を知らぬ者はないであろう帝王こと榎木津礼二郎その人だった。
「本を読みもしないのに来るのは早いですね」
「本を読みに来るお前が来た時に、気に入りの席に先客がいたら可哀想だろう? だからさ」
「そんな気の利く真似をする人だとは思いませんでしたよ」
 屈託なく微笑って云う彼に、口許でだけ微笑って切り返しいつもの席に腰を下ろす。
「ふふっ、昼寝をするのに最適な席なのだ」
 屈託なく笑い、榎木津はまた居眠りの体勢に入った。
「矢っ張り、ここが一番落ち着くなぁ」
「彼方が自分の場所と決めた席だからでは?」
「違うよ」
 決して強い口調ではなかったものの、榎木津はもう一度否定の言葉を重ね、続ける。
「中禅寺」
「何です?」
「お前がいるからに決まっている」
 恥ずかしげもなく口にする、彼の真っ直ぐな視線に捕らえられた。
 言葉が、咄嗟に出て来なくなる。
「何時からだろうな。それが、もう当たり前になっていたみたいだ」
 蕩けそうな笑顔。
 シアワセそうな声。
 その余韻がそのまま安らかな寝息に変わる。
 中禅寺は俯いて口許を覆い、視線も無いのに表情を隠す。
「まったく、この人は……」
 小さく文句を口にして、深呼吸を一つしいつもの表情を取り繕って借りてきた本に目を落とした。
 向かいにあるのは彼の気配。
 たったそれだけの差異のはずなのに。
 静まってきた心臓。
 柔らかな晩秋の陽射し。
 久し振りに、落ち着いて本を読むことが出来た。
 読み終える頃には外がすっかり夕暮れの支配下にあって、帰って来たいつもの時間に知らず小さな笑みが洩れる。
 穏やかに時間は流れ行き、読み終わった本を書架に戻しに席を立った。たった一つの差異が自分にこんなにも影響を及ぼすとは。業腹だけれど矢張り彼を憎めない。
 戻ると、オレンジの陽が、色素の薄い髪を染めているのが目に付いた。
 惹かれるように歩み寄って、そっと手を伸ばして触れてみる。
 柔らかく、少し癖のある髪は指の隙間を滑らかに流れ。
 ココロの奥に小さな小さな火を灯す。
 この、焼け付くような。
 それでていて、ひどく優しいような。
 寝顔を朦朧と注視ながら、名前も解らない想いに何かを駆り立てられる。
 小さな身動ぎ。
 不意に覗いた薄い唇。
 一週間の擦れ違いの原因を齎した出来事が脳裏を過ぎる。
 突然降ってきた奇蹟の為に、嫌われるかもしれないと思ったのだと榎木津は云った。嫌われたのかもしれないと、中禅寺は危惧した。
「まったく、そう思うなら――」
 いや、奇蹟に難癖を付けても仕方がない。
「ん」
 血の気の薄い瞼が小さく震えた。夕日が眩しいのかも知れない。
 程なくして「ふわぁ」と間の抜けた声とともに欠伸をして榎木津は目を醒ました。少しだけ慌てて、けれどそれを気取られないようにして、中禅寺は髪に滑らせていた手を引っ込める。
「相変わらず正確な体内時計ですね」
「そう。もうそんな時間か」
「閉館時間の丁度十分前ですよ」
 ポケットから懐中時計を取り出して確認する。いつも、誤差は前後二分という精度だ。
「そろそろ夕飯の時間だな」
「直行しますか?」
「鞄、持ったままで構わないだろう?」
「えぇ」
「じゃあ行こう。さあ行こう。目が覚めたらお腹が空いてきた」
 歌うように口にして先を歩く。
 その後を、当たり前のように追う。いつものように。
 微かに、口許に笑みが滲んだ。
 綻びかけたから、余計に温かい。背中を注視ながら歩く、その距離と時間は愛しくもある。
 なのに。
 繰り返される日常は、安堵するのに何処か物足りなくて。
 自分の中に小さく息づく感覚があるのを知る。
 いつも通りになった日常の中に埋没する、変質したものがまだあることに中禅寺はまだ気付けない。
「如何かしたのか? お前」
 更に一週間が過ぎた頃、いつものように放課後の図書室でそれぞれ読書と昼寝に時間を費やしていると眠っているとばかり思っていた榎木津が問いを投げて来た。
「え?」
「さっきから進んでないぞ、それ」
 彼の視線の先には手許の本。頁は、指摘された通り進んでいない。
「具合でも悪いのか?」
 身を乗り出して伸ばされた手が額に触れる。
「熱は…高くはないけどなぁ」
 赤面して払い除ける。
 面食らった榎木津が、その大きな鳶色の目を不思議そうに瞬かせた。声に出して咎めたかったのを、図書室という場所が中禅寺に堪えさせる。
「……大丈夫か? お前」
 心臓が煩瑣い。
 何が変わったのだろう。
 いつもの通りに繰り返されている日常の中の差異が見つからない。見つからないのに確かに存在しているそれが、自分の中で少しずつ軋みを上げているのが解る。
「すみません、少し…外に出てきます」
「よし、屋上にしよう。僕も行く」
「良いですよ、付き合って下さらなくても」
「行くぞ」
 人の話など聞く耳を持たずに勝手に決めて勝手に歩き出す強引さが今は少しだけ憎らしい。
 溜息を吐いて、結局先を行く榎木津の背中についていった。
 階段を昇る。二人分の跫が天井に吸い込まれて行く。
 本来開放されていない屋上は、しかし榎木津が何処からか失敬してきた鍵で簡単に開いて二人を迎え入れた。
 冬が近付きつつあるのを日に日に強く感じる晩秋の夕暮れ時の空気は深く澄んで火照った肌に心地良い。
 端までゆっくりと近付いて、フェンスを背にして後ろ手に手を突き寄りかかった。
 空を仰ぐ。
 目を閉じる。
 西日は眩しいけれど心地良い。
「もう秋も終わりだなぁ……」
 榎木津の声は風に攫われた。
 近過ぎない位置に彼の気配。齎された小さな痛み。残された時間を認識させる。
 変わらないはずなのに、戻って来たはずなのに感じる違和感。
 何が変質してしまったのかまだ認識出来ないのがもどかしい。中禅寺は記憶をなぞりながら変わってしまったものを考えてみる。
 口付けられた瞬間、不思議と抵抗は感じなかった。
 女子ではないのにという文句さえ、口にしようと思ったこともない。
 それから一週間の擦れ違いは、彼に、不安さえも与え。
 こうして戻って来た日常に安堵を感じてさえいる。
 あの偶然の接触が、奇蹟が、互いの気持ちを試していたのだろうか。
「気持ち…か」
「ん?」
「独り言です。気にしないで下さい」
 いつからか当たり前のように一緒に過ごしている。
 日常から欠ければ不安めいた思いをさせられて、一緒にいたらいたで振り回されて。
 それでも嫌うことは出来なくて。
 この縁を、断ち切ることも出来なくて。
 最初は、ただ、この距離が心地良かっただけだった。
 今は――触れることで齎される温もりを知ってしまったから、その距離がむしろ焦れったい。
 自分はそれほど我儘な人間ではなかったと思うけれど、この想いはどうしても抑えられない。いつの間にか自分の中に貪欲さが芽生えていて、あの奇蹟は自分も知らない内にその箍をこっそり緩めてしまっていたのかもしれないと分析する。厄介だ。
「振り回されてばかりだ、まったく」
「……それも独り言か?」
「感想ですよ」
「そう」
 少し、寂しげな声は罪悪感を覚えさせる。
「なら僕もだ」
「え?」
「僕だって、お前に振り回されている。――もう、ずっとだ」
 体起こして彼と向き合う。
 遠く、景色を眺め遣る横顔は何処か現実感が希薄ですらあった。
「自覚してからずっと」
 薄い硝子が割れたように小さな手応え。
 敢えて口にしなかった言葉は多分、彼の躊躇いと優しさのカタチで。
「僕も、そうなのかもしれません」
 久し振りに、心から笑えたような気がした。
 性別を言い訳にする心算など最初からなかった。
 理由は後付されるこじつけに過ぎず、その感情に与えられる名前など無いに等しい。無理矢理、名前という型に嵌めてしまうのが躊躇われる、もっと純粋な何か。
 好き、に似ている。
 好奇心、にも似ている。
 独占欲も――少し混じっているだろうか。
 多分、そんなものだ。
 純粋でもないかもしれない。
 心の中で独白して小さく笑い榎木津を見た。
 視線が合う。
 風が過ぎる。
 跫が近付く。
 手が、頬に、触れて。 

 もう一度、二人の唇が、出会った。

 焦がれていたのかもしれない。
 この温もりに。距離に。
 変わったものは――自覚、なのかもしれない。
 意識してしまったから、目を伏せることも出来なくて。
 でも近付くのはまだ少し躊躇われて。
 離れるのはもっと恐ろしかった。
 背中に手を回して、榎木津の体温を少し自分に寄せる。
 心地良かったのだ、ただ。
 彼と繰り返す日常が。振り回される毎日が。
 ずっと。
 何度も、繰り返し接吻を重ねた。
 もどかしさがそれを求めた。
 離れた唇が耳朶にそっと触れて、甘く、低く、言の葉を囁く。
「ずっと、こうしたかったんだ」
 抱き締めて、口付けて。
 言葉などなくてもいい。
 ただ、この想いを拒まれていないことをもう一度確かめたかった。
「奇蹟の再来を待っていた」
「そんなものに頼るなんて――あんたらしくもない」
 砕けた口調が嬉しい。
「でも、その気持ちは解る気がします」
 同じだった。
 ココロの何処かでそれを求めていた。
「ふふ、お前でも明瞭しない物云いをすることがあるんだな」
 離れた距離に少し未練が付き纏う。
 見下ろす視線がひどく優しくて、中禅寺は揶揄いに軽く応えた。
「ありますよ。言葉は万能じゃあない」
「確かに」
 もう一度、触れるだけの口付けを与えられて。
「もういいな? 戻るぞ。こんな処に何時までもいたら風邪をひいてしまう」
「そうですね」
 連れ立って屋上を後にする。
 奇蹟は、結構何処にでも転がっていて。
 それを手にする契機は、望むものの存在と――行動力、と云ったところだろう。
 行動力だけなら、人一倍――いや三倍でも足りないくらいだろうか――ある相手となら、再会するのも時間の問題かもしれない。
 その再会の瞬間こそを奇蹟と云うのなら、確かにそうなのかもしれないけれど。
「中禅寺?」
「あぁ…すみません、今行きます」
 考え事をしているうちに、足が止まってしまっていたらしい。
 踊場で自分を待つ榎木津に返事をして、そこで思考を止めて階段を降りた。
「お前の悪い癖だ」
 肩越しに振り返って、額を、形のよい指の先で小突く。
「行くぞ」
 手首を掴まれ歩き出す。
「榎さん、こっちの方が危ないと思うんだが」
「聞こえないよ」
 嘘にもならない嘘を憎むことなど出来ず騙された振りをすることを決める。
 温もりを、距離を、忘れないうちに。
 また、こうして奇蹟が再来する、小さな予感が掴まれた腕に刻まれている気がした。


   
(了)


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