いつも、まるで見透かしたように彼は現れて。 卑怯で愚かな自分が重ねたこの咎さえも受け止めるから。 何も云えなくなってしまって、そして。 【咎悔の夜】 逃げるように探偵社を後にして、不自然にならない程度に急いで階段を駆け下りた。 階段室のドアを開けてビルの外に出ると、頬を撫でる冷たい風に少しだけ気持ちが冷めてほっとする。 吐き出した白い靄は北風に攫われて何処かへ消えた。 それをぼんやりと目で追いかけて、ゆっくりと駅へと歩き出す。暮れなずむ街の景色から逃げ出すように、ただ自分の足許を見詰めていた。 痛いのか悲しいのか、辛いのかも今の自分には判らなかった。 ?の――ココロの、何処かが麻痺してしまっているような気もする。 通い慣れた道。 ひとりに戻る時間。 明日どんな顔をしてあの人に会おう。 そんなことを考える。 ふと立ち止まってビルを振り返った。 後ろを歩いていた人と擦れ違いざまに肩がぶつかる。 「すみません」 謝ると、迷惑そうに睨んで相手は無言で行ってしまった。 それでも、そこで足を止める。 視線の先にあるビルは、昼間は割と目立っているように思うのに今はすっかり夜に埋もれたただの黒い塊でしかない。 本当に、自分の居場所はあそこにあるのだろうか。 ひどく心許無くなった。 息苦しさを覚えてネクタイを少しだけ緩めてみる。 ?の奥底で燻っているものは何だろう。 唇に、まだ感触が残っている――ような気がした。 「背徳の味、か」 眩暈がしそうなほど濃密で、泣けるくらい長い一瞬。痛いくらいには苦くて、悲しいくらいには優しかった時間。 適わないことなんて最初から判っていた。けれどそれを知った時の自分は蓋をして、逃げて。 境界線に立ち続けることを選んだ。 今、自分は何処にいるんだろう。どうするべきなのだろうか。 答えが見つからないまま来た道に背を向け駅へと急ぐ。 考えたくない。 結末なんか判り切っているのに。 曖昧に濁したままではいられないのだろうか。 彼は、自分の抱えているものをきっと知っている。知っているからきっと――牽制してきたのだ。 なのに。 止まらない。 止まれない。 「うわっ」 いつの間にか解けていた靴紐を踏みつけて転びそうになって足を止めた。 近くの店の軒先を借りて、邪魔にならないよう靴紐を結び直してまた歩き出す。 何も考えたくなかった。 だから、喧騒に耳を傾けて思考を必死に逸らそうとした。 駅前はそんな自分とは無関係に今日も賑やかで。 待ち合わせをする人が群がっている時計を見上げると、電車はどうやらつい先程この駅を出たばかりのようだった。自分の間の悪さに苦笑して、寒さを凌ぐためとにかく駅舎に入る。 そこで。 「益田君」 呼ばれて肩越しに振り返る。 この街で、自分をそう呼ぶ人間は限られているけれど見知った顔はそこにはなくて。 「こっちこっち」 笑い声のする方に改めて視線を向けた。 「あぁ、ツイてますなぁ今日は」 屈託なく笑う彼がそこにいた。 「鳥口…君……」 「今帰りっすか?」 「え? あぁ…はい、そうです」 どうして。 「なら良かった」 どうして、いつも。 「この後予定とかあります?」 「ない、けど……」 「じゃあ夕飯食いに行きませんか?」 いつも、まるで見透かしたように彼は現れて。 「今日は何だか一段と寒いっすねぇ。おかげで無性に鍋が食いたくなる。風が吹けば鍋屋が儲かるたぁこのことですな」 「それ、鍋屋じゃなくて桶屋ですよ」 「うへぇ、まぁ細かいことは置いといてですな。まぁ鍋ほど一人で食べてつまらないものはありませんからな。丁度益田君の仕事も終わる頃かなと思って寄り道してみたんですわ。――どうです? 鍋食いに行きませんか?」 「いいですよ」 一人でいたかったような気もするし、一人でいたくなかったような気もする。 どっちつかずな自分には、こうして流されるまま行動するのが似合いだと思ったから深く考えずに彼と行動を共にした。 「いつもの店でいいすか?」 「いいですよ」 お互いの最寄り駅の中間くらいの駅の近くにある小料理屋。彼と夕食を共にする時は、大抵その店を利用する。 「じゃあ行きますか」 いつの間にか馴染みの場所になっていた。 彼とこうして夜を過ごすことも、多分、あの夜を切欠に随分増えている。 あの夜も――自分は逃げ出すようにビルを後にして。 「益田君? 切符、買わないんですかい?」 「え?」 「ですから切符」 「あぁ…すみません、今買います」 列に並んで順番を待ち、窓口で下車駅を告げて支払いを済ませ待ってい鳥口と合流する。彼に続いて入ったホームで待っている人は疎らだった。 冬の乾いた風は靴音を妙に響かせる。 「寒っ」 「今日は風が冷たいっすよねぇ……」 「鳥口君は平気そう」 「はぁ、僕ァ若狭の生まれですからね。関東より冬場雪は多いんでこのくらいならまぁ何とか」 「そうなんだ」 「云いませんでしたっけ?」 「どうだろう…聞いたような気もする」 吐き出した吐息で指先を温めてみても、すぐに冬の冷たい空気が熱を奪ってしまう。 あの場所はもっと寒かった。 同じ関東なのに。 もう、あれから一年が経って。 こっちに来てからも一年が経とうとしているのか。 「何かあったんですかい?」 「――…何で?」 突然尋かれて?が一瞬強張った。 「さっき、上の空だったから」 「……そう、見える?」 「云いたくないなら聞きませんけど愚痴りたいなら聞きますよ」 あの夜と同じような科白。 「――…まだ、内緒にさせて下さい」 向かいのホームに鉄道がやって来た。 その音に、自分の声が掻き消される。 沈黙が過ぎった。 風の冷たさが染みる。 耳が痛むような冬の空気に意識を向けて、出来るだけ何も考えないようにした。 そうして暫く耐えていると漸くこちにのホームにも鉄道がやって来て、彼と二人それに乗り込み数十分揺られて目的地で下車をする。 改札を抜けて、駅前の道をいつもの店へ。 吐き出した息は街灯に削られた夜闇の中で白い靄となって瞬時に姿を消す。 暖簾を潜って店内に入った。温められた室内にやっとほっとして、いつものようにカウンターに並んで座り熱燗を頼んで鍋と小鉢の料理を何点か頼んで食事をした。 「くーっ、やっぱり冬は熱燗に鍋が最高ですな」 「おでんもいいですよねぇ」 「あぁ、じゃあ次はおでんで」 後でと濁したことについて特に触れることもせず、彼は最近の仕事のことなどをいつものように屈託なく話しながら健啖家振りを発揮する。 彼の話に耳を傾けながら同じ鍋を突付いて食事して、猪口を傾けて。 気付けばすっかり長居してしまっていた。 ?も温まって食欲も満たされたこともあり、支払いを割り勘で済ませて店を後にする。 駅まで引き返すまでの道にはもう行き交う人の姿も見えない。点点と足許を照らす街灯が余計寂しさを煽る。 「やっぱ外出ると寒いなぁ……」 あっという間に冷たくなってしまった指先を、また吐息で温めてみるけれど無駄な抵抗で。 コートのポケットに手を突っ込んで先を行く鳥口の背中を追った。 「――今日、どうします?」 「え?」 急に、肩越しに振り返って尋かれた意図を汲めずに聞き返す。 「泊まって行きますか?」 ふと足を止めたのは、駅までの道程を半分ほどたどった辺りだっただろうか。 「あぁ、別に他意はないっすよ。でもほら、愚痴付き合うって云っておきながら結局自分ばかり喋ってしまいましたから」 「…………」 「それにほら、一人って気楽っすけど時時こう――張り合いがないというか。物寂しくなるというか」 言葉を選びながら話す彼は少しだけ珍しくて何だか可笑しい。 「あぁ、そうだ」 「どうしたの?」 「忘れてました」 突然足を止めると彼は、何かを思い出したらしく「ちょっと待ってて下さい」と云うなりその場にしゃがんだ。珍しく持ち歩いていた鞄の中をごそごそと探し出し、少し草臥れた紙袋を一つ取り出してそれを自分に差し出して軽い口調で云う。 「これ、良かったらもらって下さい」 「え?」 「本当はクリスマス頃渡そうと思ったんですけど…ほら、益田君容疑者扱いされたとか何とかでばたばたしてて年末全然捕まらなかったじゃないっすか。それですっかり渡しそびれてしまいまして。ずっとタイミングを逃していたんすけど……」 「そんな、何だか知りませんがもらえませんよ」 「いや、いいんですって。大したものじゃありませんし仕事で出入りした店で格安で手に入れたんで気にしないで下さい」 「けど、もらう理由がないです」 「今日はバレンタインとか云う日だそうで」 「は? 何それ」 「僕も最近知ったんですが…何でも西洋の方では花やらケーキやらの贈り物をする日なんだとか」 彼が、意図的に――多分、自分に気を遣って何かを敢えて伏せたのを感じ取る。 けれど何も尋けなくて、ただ押し付けられるように渡された紙袋を受け取ったまま立ち尽くした。 「開けてみて下さい」 悪戯っぽく笑う彼の言葉を断りきれなくて、促されるまま紙袋を開く。 毛糸の手袋が一組、その中に入っていた。 「待ち合わせする時とか、益田君いっつも手が寒そうだったんで」 喉の奥が焼け付くように熱い。 「どう、して……」 くしゃっ、と紙袋が小さな悲鳴を上げた。 「どうして」 こんなタイミング卑怯だ。 「僕は」 違う。卑怯なのは――卑怯なのは自分だ。 「他意なんかないっすよ」 優しい否定。 「それに――」 濁した言葉。 顔を上げると困ったような、少し躊躇ったような顔をして。 「益田君が大将のこと好きだってのはあの時から知ってましたし」 いつもの屈託のない笑顔で。 明るく、彼はそう宣告した。 「自覚なかったんすか? うわぁ、不味かったかな。口を開けば地雷を踏む」 今気付いた。 いや、嘘だ。ずっと知っていたのに目を逸らし続けていただけだ。 目を逸らし続けていられないことを、今日また思い知ったはずなのに――それでも必死に背を向けて。逃げて。 逃げ切れないことをこんな形でまた思い知る。 「それでも別に構いませんから」 「どうして」 「何か…益田君ほっとけないんすよ。危なっかしくって」 困ったように彼は白状した。 「許さないでよ…こんな、僕なんか」 気持ち悪い。 自分の汚さに、卑怯さに吐き気がする。 なのに。 伸ばされた手は、優しく頬に触れて。 額に、宥めるような口付けを一つ与え。 「益田君は…もっと自分のこと許したらいいんですよ」 そっと、その腕の中に閉じ込める。 「咎めてよ」 いつも、まるで見透かしたように彼は現れて。 「それは僕の役目じゃないっすよ。偶偶――居合わせただけですからな」 卑怯で愚かな自分が重ねたこの咎さえも受け止めるから。 「益田君が僕に負い目を感じることなんか何もないんです」 「何で」 「僕だって益田君のこと利用してるのかもしれない」 「嘘っ」 「じゃあ、地雷を踏んだ責任だけ取らせて下さい」 「…………」 「泊まっていきなよ。そんで、全部吐き出して行きなよ。――最後まで、付き合うから」 何も云えなくなってしまって、そして。 「ね?」 優しく言い包めるように自分を覗き込む、真っ直ぐな目に逆らえない愚かな自分は。 「帰りましょうか。折角温まってもこれじゃあ風邪をひく」 少し強引に話を区切って歩き出した、自分の手を引く彼の手を振り解くことも出来なくて。咎悔の夜に溺れて。 またひとつ、新たな咎と後悔を背負う。 二人分の跫が夜に吸い込まれていくのにぼんやりと耳を傾けていた。 駅が近付いて少しだけ明るさが増すと、何の前触れもなく温もりが離れていく。それを少し寂しく思うなんて自分は何て勝手なのだろう。 自業自得だ。 そう自嘲するくらいの余裕をどうにか取り戻して。 「どうかしましたか?」 「いえ、何でもないです」 同じ駅までの切符を買い求め、夜を駆ける鉄の箱に揺られて同じ家に帰った。 片手には、毛糸の手袋の入った紙袋。 抱えていた腕に少しだけ力を込めて、彼がくれた温かさに意識を向ける。 卑怯で愚かな自分には、結局、あの人がくれた牽制を受け流すことしか当分出来そうになかった。 |
――THE END―― |
>>>Novels-KのTOPへ >>>『clumsy lovers』のTOPへ |