それは呪いでもあり祝いでもあった。 ただひとつの想いだけを切実に込めた誓約でもあった。 この国に独り残される自分はだから、ただ言霊の力を信じて口にする。 「またあいましょう」 さよならなんか死に際にだって口にしてやらないからそのつもりでいてくれたまえと続けて。 【またあいましょう ―Matter I must show.―】 来るべき日に備え、ある者達は疎開しある者達は徴兵され、彼の知人友人も一人また一人と戦地へと赴いた。いつとも知れぬ終わりに向けて、報道とは裏腹にこの国は滅びへの道を急速に着実にたどっているようにしか思えない。 士官候補生だった彼の許にもそれが平等に訪れたことを知ったのはつい先日。 内地での従軍が決まっていた自分に、 「僕も南方に行くことになったぞ」 と、旅行の予定が決まったことを告げるようないつもと変わらない口振りで云った。 ことの深刻さを酌み損ねて中禅寺は「そうかい」と気のない返事をし、聞き流してしまいそうになって――何とか踏み止まり聞き返す。 「何だって?」 「聞いていたんじゃないのか? お前」 「榎さん、今――『南方に行くことが決まった』と、そう云ったのかい?」 「聞こえているじゃないか。来週末には行くよ」 素っ気無く口にした。 「壮行会だとかもするらしいぞ。――来るだろ?」 鳶色の瞳が真っ直ぐに視線を注ぐ。 揺らぎのない強い光を湛えたそれを直視できなくて、できるだけ不自然にならないように眼を逸らしながら「考えておきましょう」とだけ答えた。 「じゃあ来い」 「…………」 「来るな?」 「――えぇ」諒解りましたよ。 それ以外の返答を許さない語気に押されて口にする。 後で連絡するというその言葉がその日の別れの挨拶になった。 滞ることのない時間は無味乾燥に、その癖内側にはじわじわと何かが巣食い出していて焦燥感に似た息苦しさの芽に水を注ぐ。 現実感は揺蕩う時間の中で見失ってしまったらしく壮行会の最中も何処か中禅寺は上の空で明日には本土を離れる友人のあまりにも変わらない振る舞いに自分は騙されているのではないかと半ば本気で疑ったりもした。 大体、酒宴になると酒を口にしない自分はどうしてもその場においての異分子になってしまう。 少し風に当たって思考を冷まそうと、誰に断りもせず庭に下りて少し歩いた。 擦れ違う風は心地良さの割に自分の内側にあるものを何も晴らしてはくれない。 遠い月は皓皓と淡い光で闇を焼く。 空が繋がっていたって世界が隔たっているなら何の意味もない。 「ひゃあ、寒い。風邪をひきそうだ」 間の抜けた声が静謐に満ちた空間を破壊した。 「僕を闇の中に連れ出すなんて思い遣りがないぞ中禅寺」 「別に、僕はあんたを呼んだ覚えなんかないよ。自分で勝手に来たんじゃないか」 「そんなところにいるのが悪い」 視線をたどるように、榎木津は星の散る夜空にぽっかりと明いた穴のような月を眺めやった。 その横顔を横目に見る。 本当に、呆れるほど――こうして黙っていれば同性でさえ見惚れさせる容姿をしているのを今更ながら認識する。 様になるのだ。 この世のものであることの方を疑いたくなるくらいに。 「行くんですね、あなたも」 沈黙の中で口を開く。 少し後ろに立つ彼に背を向けたまま尋ねた。 「――…行くよ」 実に明快な答え。 その言葉には、言葉以上のものを掬い上げる余地などないに等しい。 「明日」 「ん?」 「明日、僕に少しだけ時間をくれませんか?」 何を云っているのだろう。 言葉が勝手に口を吐いていく。 けれど。 「いいよ」 港の近くにある小さな神社を彼は待ち合わせの場所に指定した。 その日は――結局、そのまま別れてきてしまった。 月に溶かされた夜が朝日に焼き尽くされるのを、自宅の縁側でぼんやりとただ眺めているうちに刻限が迫ってきて、とりとめのない思考を打ち切るために風呂を済ませ日常に無理矢理自分を引き戻す。 約束の刻限まではすぐだった。 待ち合わせに指定された神社の古びた鳥居を見上げ、境内に入る。 風が潮の匂いを連れてきた。 もうすぐ、彼を遠い地へと連れて行くのだろう。――僕を、また独りこの地に残して。 見上げた空には既に昨日一緒に眺めた月はなく、もっと鋭く光を注ぐ太陽が地を照らしている。 ――不意に。 石段を登る跫が思考を乱した。 振り返って確かめたりしなくても気配でそれと判る。 「眠らなかったのか? お前」 一晩中眺めていた月でも視えたのか、いきなりそんなことを云われた。 沈黙で受け流すと榎木津も珍しく黙り込む。 「お前の不幸そうなその顔もこれが見納めかもしれないな」 神社を包む清しい空気を壊さぬままに紡がれた、言葉の端に言外のものを感じたような気がしたのはしかし錯覚ではないだろう。 中禅寺は目を閉じてその言の葉を受け取ると、ゆっくりと息を吐きながら目を開いて振り返った。 「いけませんよ、そういう言葉は」 少し離れたところに立つ彼を見て諭すように告げる。 「何が?」 「言葉は呪だ。負の言葉は負の生き筋に導き負の結末を引き寄せる。無意識でも、あんたをそういう方向へ縛る」 乾いた土の音を風が攫う。何かが、自分の中で弾け散った。 二人の距離が縮まって、そのまま擦れ違うような位置で、中禅寺は榎木津の耳元に唇を寄せ、そっと――甘い囁きのように呟いた。 「榎さんは――必ず、帰ってきますよ」 肩越しに振り返り不敵に微笑う。 多分これで良いのだろう。 「それも呪いか?」 向き合うために、榎木津は体の向きを少し変えた。 「祝いだよ。仕組みは変わらんがね」 僕からの呪いだ。 あんたが復員したときに成就する。 尤もそれは呪いや祝いなんてものよりもっと切実でもどかしくて言葉にならない様々なものを込めた誓約に近いものだった。でも呼び方なんて瑣末な問題なのだ。 ありふれた言葉ならすぐに消えてしまう。 彼の中に残るのは常に本質を得たものだけ。 だから、遺したいと思うなら示さなければならない。本質を象った言葉だけで。 「持っていろ」 差し出されたのは一枚の写真。 綺麗な人が写っていた。 「神崎さん…ですか?」 一度だけ会った彼の交際相手。 「爆撃を受けたら一遍に燃えてしまうからなッ」 「嫌がらせですか?」 「馬鹿だなぁ。お前に預けておくだけだ。嫌がらせなんて今更してどうする」 「何処が違うんです」 「その方が忘れないだろ?」 「――なるほど」それがあんたの呪いか。 人は負の感情ばかり引き摺る生き物だから確かに有効かもしれない。 潮風が笛の音を運んでくる。乗船者の確認がそろそろ始まってしまう。 「そろそろ時間だ」 海の方を見遣って何処までも緊張感なく彼は云った。 「榎さん」 呼んで、振り返った彼の手を掴み強引に引き寄せる。 珍しく驚いた意外そうな表情が一瞬見えた。 「またあいましょう」 抱き締めた腕の中の体温を忘れないように刻み込む。 媒介になる言葉なんて不要だろう。 示さなければならない本質の物事なんて所詮、言葉にしたら途端に嘘になってしまうから。 「またあいましょう。――必ず」 「あぁ」 背に回された腕が痛いくらいきつく自分を抱き締めて、離れた。 「行ってくる」 耳元で静かに紡ぐ。 柔らかに笑って彼は背を向けた。 「榎さん」置いて行く彼を呼び止める。 「何だ?」 肩越しに振り返った彼に告げた。 「さよならなんか死に際にだって口にしてやらないからそのつもりでいてくれたまえ」 彼は可笑しそうに「いいよそれで」と言い残して石段を下りて行った。 その背中を、中禅寺はいつまでも見つめていた。 やがてすっかり見えなくなってから、結局港まで出向いて今日付けで出征する人々を見送りに集まった群集に混じって彼の姿を船に探す。 汽笛が響き渡り見送りに着た人々を黙らせた。 そして船は彼を異国へと連れて行く。 「またあいましょう」 去り行く船に宛てて呟いた、言葉は波音に攫われて消えた。 |
――THE END―― |
★アトガキと言う名の詫状★ 京極同人は基本的に原作に倣って【××の×】型にしたいなぁと密かに企んでいたりしたのですが早くも例外の登場です。一度やってみたかったのです二重タイトル。そして思いついたこのタイトルに合う話として浮かんだのが榎さんの出征話だったというわけで。 これは…京榎に分類しちゃっていいものなのかどうだか自分でも分類し難いのですがどうでしょう。 榎さんを縛ろうとちょっと必死になってる風な辺り、今回は京―→←榎みたいなカンジかなぁと京榎表記にしてあるのですが。 書いてる自分はどっちもOKなのでいいのですが読む側はやはり得手不得手あるでしょうからCP表記は大切だろうなと思ったりもするのですが……。 素直じゃない京極はほんとに愛しいと思います。 |
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