雪を見る度に思い出す。いつまでも鮮明に記憶に残る。
 それはただ、こうして二人でいられる時間が全てでそれで良かった――所謂思い出というカテゴリに分類される出来事の一つ。 
 目の前に広がっていた、見渡す限りの世界を埋め尽くす白。
 何処までも果てない完璧なその、白の世界の果てを探してアテもなく歩いたあの日。
  
【雪の戯れ】

 ――…参ったな。
 目を覚まして、喉に感じた違和感に中禅寺は小さく溜息を吐いた。
 眠っている間の乾燥した空気でやられたのか、それとも風邪でも引いたのか――喉の奥がチリッと痛む。少し熱っぽいような気もするし、関節が僅かに痛むような感覚もあるので恐らく後者だろう。
 凛とした空気は屋内にいても肌に冷たさより痛みを感じさせる。昨日からそんな気配はしていたのでその理由には心当たりがあった。
 畳ベッドから降りて窓辺に歩み寄り、外を眺めやる。予想していた通りだった。
 外は一面の雪景色。
 見渡す限りの世界が雲の欠片に埋め尽くされている。
 今日は部屋でおとなしく本を読み耽ることにしようと決めて、手早く着替えを済ませ食堂に行った。軽く朝食を済ませて早早と部屋に引き返す。
 読み止しの本を、ベッドの上で壁に凭れて読み進めた。
 静かだった。
 遠くで木の枝から落ちる雪の音が聞こえたような気もする。
 微熱がある所為か少しだけ眠いのが集中力を殺ぐけれど、それも何処か心地良い感覚だった。空気の冷たさの所為だろうか。何もかもを飲み込んで、静けさに変えてしまう力を雪は秘めているのかもしれない。
 其処へ。
 最初は――近くの木から溶け落ちた雪の音だと思っていた。
 けれど、それが自分のいる部屋の窓目掛けて投げつけられたものだと気付くのに時間は掛からなかった。
 相手を何となく予感して、中禅寺は本に栞を挟み窓に歩み寄る。
 窓を開け放って外を見ると、
「やっと気付いたなッ!」
 白銀を背景に快活に叫ぶ彼の姿が見えた。
「窓が割れたらどうしてくれるんですか? 先輩」
「見ろ、雪だッ!」
 自慢気に、寧ろ何処か誇らしげに云う様が何だか可笑しい。
「こんなに綺麗に積もったのに外に出ないなんて何て勿体無い! そう思うだろう? 思うなッ!」
「僕は嫌ですよ。寒いと知っていて外に出るなんて御免です」
「降りて来い。三分だけ待ってやる」
「だから僕は――」
「三分だ」
「…………」
「早くしろよ」
 絶対に、彼は引かないだろう。だからいつもこうして自分が折れることになる。
 苦笑と溜息の混じった深い息を吐いて、中禅寺は上着を着込みマフラーを首に巻きつけて仕方なく部屋を後にし寮の外へ出た。
 肌を刺すように詰めたい空気。
 建物をぐるっと回って先程彼のいた――自分の部屋のある方へと向かう。
 自分の足跡が白銀に刻まれていく。
 柔らかに、無抵抗に踏み躙られていた白はしかし、爪先を急速冷却して痛みという反撃を繰り出してきた。
「遅い」
 踏み締めた雪の軋む音に気付いて振り返った彼は振り返り様にそう口にする。
「三分は待つと云ったのは先輩の方ですよ。まだ――二分と二十四秒しか経っていない」
 外套のポケットに忍ばせていた懐中時計を開いて確認する。
「早く来いという意味に決まっている」
「知ってますよ。だから、これでも急いで来たんです」
 紡ぎ終わるなり咳が口を吐いた。喉の奥に張り付くような不快感。
「どうだ、見たか? まっしろだ」
 庭木の間から覗く白い世界に視線を投げて彼は云う。
 その横顔は深く澄んで、雪のように気高くて中禅寺の目を奪った。
 時折、彼が人間であることの方を疑いたくなる瞬間がある。今、この時のように。
「でも閉じ込められたみたいで面白くない」
「あぁ、先輩らしい反応ですね…それは」
 彼には、そう――何よりも束縛が似合わない。枷や、柵。そういった、自由を制限するものは相応しくない。何時だって自由で。
「よし、決めた!」
「何をです?」
「雪投げ大会をしようと思ったがやめだ」
 そんなことをするつもりだったのか。
 急に何かを決断したらしい彼に、少しだけ嫌な予感を覚えつつその先の言葉を待った。
「おい、中禅寺」
「何です?」
「外に出よう」
「もう出ているじゃないですか」
「違う! この世界の外だ」
「解るように云って下さい」
「まっしろの外を探しに行く。だからとりあえず学校を出るぞ。冒険だ!!」
「冒険て…ちょっと、待って下さい。先輩!」
 決断するなり自分の左手を掴んで校門の方へと進んで行く。
 急に歩き出すものだから転びそうになって、慌てて体制を整えて、片手を引かれるまま彼の後に続いて、歩いて。
 ――校門の外に出た。
「おぉ、まだ真っ白だ。白いなぁ…あぁ、でも自転車の跡があるな。足跡も少しある。これはにゃんこのだな」
 無邪気に口にしながら上機嫌に、行くあてなどないに等しいのに迷いなく彼は進んでいく。
「何処まで行くんです?」
「知らないよ。この白い世界の果てが見つかるまでだ」
「そんな」無茶苦茶だ。
「理由なんて本当は何だっていいんだけどな」
 掴んでいた腕を解放して手を繋ぎ直す。
 重なった彼の手は雪の所為でいつもより少し冷たくて、それが、いつも覚える羞恥心に似たものを忘れさせるから。
 握り返して、自分の体温を分け与えられたらと願った。
 けれど彼はそんなことを気にも留めず、ただ前だけを見つめて道を行く。
「白いなぁ、なかなか終わらないなぁ」
「局地的に降るなんてことはないんです。仕方がない」
「でも塗り忘れくらい何処かにあるだろ」
「塗り忘れ?」
「白じゃないものが見たいじゃないか」
 あぁ、そうだ。
「あ其処へ行こう」
「何処です?」
「赤が見たい」
 ずっと歩いて来た大きな通りを次の十字路で一つ奥に逸れた。
 彼は相変わらず迷いなく、しかし今度は一箇所を目指して歩き続ける。
「先輩」
「名前」
「…………」
「何度も云わせるな」
 たった一つの年の差などで隔てるなと彼はいつも自分に望む。
「――…榎さん」
「ん?」
「何処へ行くんですか?」
「着いたら解るよ。――いや、もう判ってるだろ? お前。其処だ」
 肩越しに振り返って、自分の頭の少し上に視線を向けて満足そうに笑う。
「あってるよ、其処で。僕は赤が見たいんだ」
 どんどん学校は遠ざかり。
 通りは少しずつ寂れ。
 あの時は気付かなかったけれど、緩やかな斜面の道が続き。
 右手に少し奥まって、その場所は雪に埋もれていっそう冴えた静けさを放ってそこにあった。
 足跡一つ刻まれていない、白銀に埋もれた石段に二人の足跡を刻む。
 夏の終わり、夕立に遭遇して雨宿りをした廃寺。一晩中降り続いたのであろう雪の中にあって、古びた柱はしかしまだ塗料が残っていて一際鮮やかに朱い。明るい中で見たらきっと、みすぼらしいほど遜色して感じるのだろうけれど――今は、白ばかりの世界の中ではとても存在感があった。
「あぁ、赤だ。きっとここにはあると思ったのだ」
 きっと、ここはいつか思い出というカテゴリに分類される場所の一つ。
 残された時間を無意識に計算している自分がいた。
 ずっと、握っていることを忘れるくらい自然に握ったままになっていた手に少しだけ力を込める。何を堪えているのか自分でも解らない。
 このもどかしさに似た感情は何だろう。
「どうした?」
 黙りこんだままの中禅寺を振り返った。
 少し、頬が上気して見えるのはずっと歩き続けていた所為か、空気の冷たさの所為か。それとも――自惚れても構わないような理由なのか。
 判断出来ず、短く問うだけにする。
「いえ、別に…何でも」
 体温が上がっているような気がした。
 頭がひどく重い。感覚が麻痺しているのか関節に感じていた痛みは今はないけれど、気を抜くと咳き込みそうな気配を感じて必死に抑え込む。
「見てみろ中禅寺。――ほら、まっしろだ」
 他よりも少し高い場所にあるここからは、白に埋め尽くされた景色を見渡すことが出来た。
 白に支配された世界に果てなど見えず、切れ目なく何処までも続いているよう。
 少しだけ、隣に立つ男に体重を預けた。気紛れだった。それ以外に理由なんてない。
「……中禅寺?」
 言葉が、突然見つからなくなって。
 ただ、握った手を握り返すしか出来なかった。
 優しく笑う気配。
 その手を、少し強引に引っ張られて。
 正面から抱き止められる。
 彼の、気配に支配される。
 目を閉じると体温が心地よかった。
 見上げれば目が合って、そのまま。
 何処からともなく流れてきた風に背中を押されるようにして唇を触れ合わせる。
 如何して、今日は痛いのだろう。
 今日の自分はひどく不安定だ。
 それに気付いたのか、宥めるように榎木津が額に軽い口付けを落とした。
「よし、裏に回るぞ。冒険だからなッ」
「あぁ…そう云えばそんなことを云っていましたね」
 建物を回り込んで裏手に出る。
 思った通り、反対側にも緩い斜面があって、きっと何処かに道があるのだろうと思われたけれど雪に覆われて何処だかは判らない。
「下りてみよう」
「止めた方がいいですよ。雪で足場も悪いし…何より雪の下に何があるか見えない」
「何処かに階段くらいあるんじゃないか? ――あぁ、あそこだ。手摺が見える」
 左手の、少し奥まった場所に確かにそれらしいものが見えた。
「よし、行こう」
 手を引いてまた強引に歩き出す。
 寺の裏手は雪に覆われて平坦に見えるけれど歩いてみると思った以上に足場が悪く、おまけに少し傾いているようだった。
 榎木津は気にせず先を歩く。いつもそうだ。
 けれど。
「うわっ」
 雪の積もった地面は揶揄うように彼の足を滑らせて。
 斜面の端を歩いていた二人はバランスを取ることも出来ず。
 重力に逆らうことも勿論出来ず。
 そのまま、中禅寺も榎木津に引っ張られるようにして――斜面を転がり落ちる羽目になった。
 視界が暗転する。
 そして、意識が、途切れる。
「おぉ痛い…でも雪の所為で助かったな」
 何とか、自分が下敷きになる形で中禅寺を庇うことは出来たものの、もっと平穏に降りる予定だったのでこれは大きな誤算だった。
「中禅寺? おい、大丈夫か?」
 半身を起こして自分に覆い被さっている後輩に声を掛ける。
「中禅寺……?」
「…………」
 ぐったりとして動かない彼に、一抹の不安が過ぎった。
「おい、返事くらいしないか」
 体を起こしてやると、見たところ――目立つような外傷はない。しかし。
「お前……」
 掴んでいた手の熱さに、今になってから気付いた。
 口許で耳をそばだててれば、熱っぽく弱い呼吸を繰り返している。
 少しだけ、少しだけ反省と罪悪感を覚え、兎に角学校に戻るのが先決だと立ち上がろうとして。
「――痛っ」
 どうも、斜面から落ちたときに足を捻るか何かしたようだった。
 右足に違和感。それも、動かすと鋭く痛むほどの。
「お前の忠告を聞くべきだったなぁ、今回は」
 苦笑して、けれどこのままでいられるほど事態を楽観することもできなくて。
 ぐったりとしている中禅寺を背負い、痛む足に目を瞑って学校へと引き返した。
 幸か不幸か雪の中を暫く歩くと冷たさで感覚は麻痺し痛みをあまり意識しなくなった。歩きにくさはあるが、とにかく――ただ学校を目指す。
 どのくらい時間がかかっただろうか。抜け出してから少なくとも一時間は経っているに違いない。
 真っ直ぐに保健室に向かい、思い切りドアを開いて保険医を呼んだ。
「早く手当てしろ。中禅寺が先だ」
 そう云ったような気がする。
 後のことはもうよく覚えていなかった。
 気が付いたら保健室のベッドに横になっていて、首を動かして横を見ると右隣のベッドで寝息
を立てている中禅寺の穏やかな顔が見えた。
 体を起こし、右足を庇うように移動して中禅寺が眠るベッドの端に腰掛ける。
 漆黒の髪に手を滑らせた。
 そのまま、そっと頬に触れる。
「すまない。ちゃんと…気付いてやれなくて」
 少しだけ反省をする。
 でも、きっと今日を忘れないだろう。
 そのことを嬉しく思ったりもする。
 先に、卒業してしまうけれど。
 自分がいなくなったこの学び舎が、また今日のように雪に閉ざされたとき、彼の――脳裏にこの雪の戯れの記憶が鮮やかに蘇るなら。
 離れてしまう時間も悪くないと、そう思えるような気がする。
「早く治せよ、風邪」
 ベッドに腰掛けたまま目を閉じた。
 冷たく澄んだ冬の気配。
 雪の戯れの記憶はただ鮮やかに、雪のようにただ、冴えて。

 
――THE END――




>>>Novels-KのTOPへ
>>>『clumsy lovers』のTOPへ