急な仕事で取り紛れて、あれから暫く彼に会っていない。
 ひどく体調を崩していた様子が気にかかる。自覚があるのかないのか――恐らく、あれは風邪などではなくもっと精神的なものだろう。だとすると快復には時間がかかるかもしれない。
 最後に見たのは切なげな寝顔。
 誰かから預かった痛みを、何とか自分で消化しようとでもしているように見えた。
「元気にしてるといいんすけどねぇ……」
 誰もいない編集室で呟いた声は即座に静けさが飲み下す。
「今日はこれで終わりですな。続きは明日ってことで」
 校正を終えた原稿に赤鉛筆を置いて、鳥口は仕事を切り上げて出版社を後にした。 

【歔唏の代替】

 神保町で電車を下りる。
 時刻は間もなく十八時になろうかという頃。もし出勤しているのなら、ほどなく仕事を切り上げ益田も姿を見せるだろう。
 夏の気配を連れ去るように、少し湿度の高い風が通り過ぎていく。
「うへぇ、日が短くなりましたなぁ」
 空には既に夜の気配。駅前には少しずつ集まってくる会社員の姿。
 近付いてはすぐに遠のいていく、彼らの跫に耳を傾ける。近くの電柱に背を預けて、鳥口は空を仰ぎ目を閉じた。
 我ながら不毛だとも思う。
 けれど、放っておくことも出来ず。
 如何しても――彼が気に病むことが容易に想像出来てもなお――気に掛けずにいられないのだ。
 これは、恐らく愛しさなのだろうと思う。
 相手が悪いことこの上ないし、勝ち目なんてものは何処にも見当たらない。
 それでも。
 構わないとさえ思えるくらい、深入りしてしまっている。
 目を開ければ薄い闇。宵の空には小さな星の瞬きも見えた。
 苦笑して腕時計に目を落とす。
 一時間待って現れなかったら諦めよう。
 決めて、もう一度空を眺めやった。
 何をするでもなくそうしていると、不意に――…
「鳥口…君?」
 呼ばれて、声の方を振り返る。
「あぁ、矢っ張り鳥口君じゃないですか」
 少し気まずそうな顔。
「お久し振りです」
 ぎこちなく、それでも微笑ってそう口にする姿は最後に会った時よりは少し落ち着いているように見えた。
「本当に暫く振りですな。――具合、もういいんすか?」
「え? あぁ…はい、お蔭様で何とか」
「そう」
「うん。丁度…鳥口君が来た日かな。――あ、そう云えばすみません。途中で寝ちゃって…お詫びもしてませんでしたよね」
「いいすよ、別に。益田君が具合悪かったの知ってますんで」
「すみませんでした。でも…あのまま翌朝までぐっすり寝入ってしまったんですよ実は。寝不足もあったみたいで翌日は随分調子が良くてですね。久し振りに出勤して…後は、まぁ…御想像お任せしますというか」
 一度そこで言葉を区切り、益田は反応を探るような視線を寄越す。
 鳥口は、気付かない振りをした。
「榎木津さんにですね、『夏風邪は馬鹿がひくと云うが本当にひくなんて矢ッ張りお前バカオロカじゃないかッ!』とかなんとか…散散馬鹿にされた次第です。あのおじさんそのネタ未だに引っ張るんですよ…僕ァ今日もナツカゼオロカなんて意味不明な呼び方されてたんです」
「うへぇ、そいつは手厳しい」
「そんなわけで…はい、お蔭様ですっかりいつも通りですね」
 苦笑した顔は何処か憂いを滲ませていたけれど、それでも先日あった時のような思い詰めた様子も痛痛しさもない。
 あの日、歔代わりのように見えた、翳りのある表情。
 今もまだその気配は残るけれど、あの時ほどではないように見える。
「とにかく良かったです」
「何が…ですか?」
「益田君がいつもの様子に戻ったみたいなんで」
 笑いかけると逆に表情を強張らせ、何かを云おうと口を開きかけて――けれど、その言葉を益田は飲み下した。
 尋いても、多分鳥口は誤魔化すのだろう。
 自分が予想した通りだとしても。
 彼は、優しいから。
「会いましたよ」
 なのに。
「実はあの日、大将に会いました。益田君がずっと休んでいたこと、大将から聞いたんですわ」
 問いの答えを鳥口は口にする。
「そう…なの?」
「丁度和寅さんが買い物に出ていて事務所に大将しかいなかったんですな」
「そうなんだ……」
 ならば。
 榎木津との間に『何か』があったことを、鳥口は察したのだろう。
 それでも、彼は自分を見限らない。
 そして自分も、まだ彼の善意に甘えようとしている。
 卑怯だ。
 狡くて、汚くて――ひどく卑怯だ、自分は。
「それだけすけどね」
 照れ隠しのように微笑って話を区切る。
「益田君がいないんで大将も暇を持て余してる様子でしたな」
 優しい牽制を彼も寄越す。
「嫌だなぁ……」
 きっと、ここで優しさに甘えるように彼に凭れてすすり泣いたとしても許してくれるのだろう向けど。
「それじゃあ僕がいつも榎木津さんの暇潰しの道具にされてるみたいじゃないですか」
 そうする自分を許すことは出来ないから。
 ケケケ、と。
 いつものように。
 何もなかったように。
 気付かなかったように。
 調子よく。
 歔唏の代替として。
 笑う。
「うへぇ、これは失礼」
 申し訳なさそうな苦笑い。
 やめにしようこの話題は。
「ところで……」
「はい?」
「今更なんですけど鳥口君…こんな所でどうしたんですか?」待ち合わせ?
 口にして、休息に内面が冷めていく。
 矢っ張り自分は卑怯だと思う。
「そうすね…似たようなもんですが。どちらかと云うと待ち伏せに近いですな。約束はしてないんで」
「待ち伏せ……?」
「あれからずっと会えてなかったんで気になってたんすよ」
 真っ直ぐに、鳥口は益田の視線を捕らえた。
「え?」
「益田君を待ってたんですよ――って、云って…信じてもらえます?」
 戸惑いの表情。
 睨み合いのような、駆け引き。
 時機が悪いかもしれない。
 これでは折角いつもの調子を取り戻しつつある彼をまた追い詰めることになりかねない。
「久し振りに仕事も早く終わったんで、益田君のことも気になるし運が良ければ会えるかなって、気紛れにふらっと足を伸ばしてみたんですわ。そうしたら見事に」
「あぁ、何だ…そうだったんだ」
 何処かほっとしたような淡い笑みが、お互いに期待を、希望を繋ぎとめる。
「折角ですしこれからどうです? 飯でも」
「いいですね」
「酒はやめておきますか?」
「平気だと思うけど…うん、そうしておきます」
「この前取材に行った先で美味い飯屋を見付けたんすよ」
「へぇ、じゃあそこにしましょう」
 駅舎へと、二人連れ立って歩き出した。
 泣かせてやれば良かったのだろうか。
 切符を買い求めて改札を抜けながら鳥口はぼんやりと考える。
 また、こうして歔唏の代替を差し伸べることで彼の意識を逸らし。
 曖昧さを残すことで、お互いに保険を掛け合っている。
 不毛かもしれない。
 あまり良いことでもないかもしれない。
 けれど。
「鳥口君?」
「はい?」
「どうかしたの? ぼーっとして」
「あぁ、すみません。何でもないです。そうそう、今日案内する店なんすけど――…」
 調子よく口を滑る言葉に任せ。
 今日を凌いで行く。
 現状維持でまだ十分。
 いつの間にかいつも通り、原状回復が働いて落ち着く距離に落ち着いて。
 ホームで隣り合って電車を待ちながら。
 会わずにいた間の些細な出来事を話の種にして。
 久し振りに――肩の力を抜いて過ごせる夜の気配をお互い感じていた。


 
(了)


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