自然によって築かれたそこは元々強固な結界に守られていた。
 そしてその中に厳重に、もう一つの結界と小さな箱庭を一人の禅僧が築いた。
 二重に閉ざされたその結界が破られたら――中にあった世界を壊したらどうなるのか――想定していなかったわけではないけれど。
 己の腕の未熟さを思い知らせるように。
 或いは、凍えた時に刻まれた執念を見せ付けるように。
 古寺は瞬く間に炎の熱に抱かれ、ずっとその場を守ってきた結界の中で朽ちて消えた。

【温もりの誘惑】 
 
 悪路を炎に追い立てられるようにして戻ってくると、人々は無言のままそれぞれの部屋へと引き返していった。
 警察だけは細々関係者への指示やこの後の方針などを決めるべく集まって小声で話している。
 探偵は担いできた関口を彼の部屋に運び込むと、雪に濡れた服を着替えるために自分の部屋に引き返した。
 そして。
 ふと、先に部屋に戻っているはずの拝み屋の気配が隣室に全くないことに気付く。
 道中一言も口を利かず、仙石楼に着いてからもなお無言のまま、この上なく不機嫌な凶相で黒衣の男は誰とも目を合わせずに二階の部屋へ早々に引っ込んだはずなのだが。
 誰よりも遅く眠りに就き誰よりも先に目を覚ます。寝顔を見られることを避けるように眠る彼が既に寝ているということはないだろうが、それならば気配くらいはあっても良さそうなものだ。
「猿といい本屋といい手のかかる馬鹿ばっかりじゃないか」
 毒づいて廊下に出るとそこには冷たい空気が充満していた。
 気紛れと云えば気紛れだが、少し気に掛かっていたことも否定できない。
 事件の苦い後味と重苦しさが冷たさと混ざり合って建物全体を支配しているようで探偵の不快感を煽る。
 部屋から出て行った気配はしなかった。
 だから、恐らく中にいるのだろうけれど。
 静か過ぎる。物音も人の気配も闇に飲み込まれたように静寂が充満している気配しかない。
「――…入るぞ」 
 二度だけ控えめにノックしてドアを開けた。
 暗い。
 月明かりも射さない部屋を埋め尽くす暗闇を、開かれたドアから入り込む廊下の明かりが二分する。
 気配はなかった。
 けれど、闇よりも濃い漆黒が窓辺に佇んでいるのが見えた。
 炎に包まれる寺。
 その中に消えた緋色の振袖を着た少女。
 暗い所為で、常人には見えないものがよく見える。
 何も見えない暗がりの広がる窓の外に視線を泳がせて、ただ立ち尽くす陰陽師はあらゆるものを背中と纏った空気とで拒んでいた。
 けれど、そんなことは関係ない。
「いるなら明かりくらい点けろ。真っ暗じゃないか」 
 聞いているのかいないのか――それとも、聞こえていないのか。
 無反応な友人に構わず榎木津は無遠慮に部屋の中に入り明かりを点けた。
 そこで、漸く古書肆は反応する。
「何の用です?」
 振り返りもしない。
 しかし、構わず歩み寄る。
「用がないなら戻ってくれないか。今は――あんたの相手をする気分じゃない」
 背を向けたままの拝み屋が、今回の事件の結末をここまで引き摺ってきているのは明白だった。
 それに気付かない振りをして探偵は聞き流す。
「着替えもしないでずっとそこに立ってたのか? そんなことしてたら馬鹿だって風邪をひく」
「あんたには関係ないよ」
 雪に濡れたままの憑物落しの装束が寒々しい。
 近づくと、拝み屋の左手を伝う渇ききった緋色が目に付いた。
 床に、一滴の血痕が染みを作っている。
「怒っているのか?」
「何をだい」
「尋いてるのは僕だ」
「質問の意味が解らなきゃ答えようがないよ」
「煙に巻いて誤魔化すつもりか?」
「誤魔化されてくれるんですか?」
 期待していない。
 口振りが言外にそう語っていた。
 痛々しいと言うのとは違う。
 自分が感じているものは、背徳さに少し似ている気がするけれど。
「僕は謝らないぞ」
「知ってるよ」
 返ってくる言葉はどれもどこか虚ろだった。
 機械的に選ばれて音になっている。それだけの――魂のない、言の葉。
 己を責めているのだろうか。
 頑なな拝み屋に通じる言葉を探す。
 多分、それは今自分しか持ち得ないものだと思う。
「――…結局」
 暫くの沈黙の後、独り言のように陰陽師は呟いた。
「結局、僕はまた殺めることでしか幕引きができなかった」
 そうして、彼は決して吐露しようとしない自分の感情をその手の中に握り締める。
 新しい緋色が彼の指先を伝う。
「まったく、何でこう僕の周りは馬鹿ばっかりなんだ」
 苦々しげに毒づきながら探偵は手を伸ばして無理矢理止めた。
 冷たい。
 指先まで冷え切っている。
「何だこの手は。雪みたいじゃないか」
 これでは感覚もほとんどないだろう。もしかしたら自分が現れる前にも同じようにして手のひらに傷を作っていたことにも気付いていないのかもしれない。
「放したまえ」
「断る」
 その手を引いて無理矢理自分の方を振り返らせる。
 古書肆は力のない目で探偵を一瞥し溜息を吐いた。
 構わずにそのままもう片方の腕を伸ばし、頭を抱えるようにして強引に自分の肩口に埋めさせる。
「馬鹿だ馬鹿。大馬鹿だ」
 探偵の言葉は容赦がない。
 けれど、不思議と冷たいとは感じなかった。
「呆れるほど手がかかるじゃないか」
 憮然として口にされた言葉の割に、その仕草は酷く優しい。
 冷えきった体に染み入る体温は卑怯なくらいだ。
 喉を焼くものを堪えるように中禅寺は沈黙を選ぶ。温もりの誘惑に負けそうな自分を無理矢理に抑え込む。
 けれどそんな中禅寺を宥めるように榎木津は彼の頭を少し乱暴に二回叩いた。
 普段の彼からは凡そ想像もつかない振る舞いに、肩口に顔を埋めたまま苦笑する。
「子供じゃあないよ」
 その声が、少し掠れていた。
「泣きたいなら泣けばいい。少しくらいなら付き合ってやらないこともないぞ」
「遠慮するよ。そんな高い貸しは作りたくないからね」でも――…。
 言葉を濁す。
 一瞬躊躇って、けれど衝動には勝てなくて。温もりの誘惑に抗えなくて。
 背中に手を回す。
 縋るように、抱き付く。
 体温はまるで全てを許すように優しい。あまりにも甘美な幻想を見せる。
 意外な反応に目を見開いた榎木津の顔は中禅寺には見えない。
「少しの、間だけでいい」
 声が、僅かに震えているように聞こえたのは錯覚だろうか。
 今だけ、縋るものが欲しい。
 自分の内側を立て直す間だけ、こうして――支えていてくれる存在が。
「不器用過ぎなんだ、お前は」
 それを許すように、自分の肩に埋められたままの中禅寺の頭に頬を寄せた。
 規則的に刻まれる心音が、彼の中に蟠っている後悔に似たものを吸収していく。
「頑なにもほどがあるぞ」
 探偵は柔らかに微笑ってそんなことを言う。
「あんたほどじゃないよ」
 飾らない言葉に結局隠したものを暴かれる。けれどそれは不快ではなかった。
「……ありがとう、と云うべきなんだろうか。僕は」
 偽りのない体温が澱を溶かす。彼はいつも気紛れに罪を許す。
 雪の降り積もる音さえ聞こえそうな静寂の夜に、あともう少しだけこのままで夜をやり過ごしてしまおうと目を閉じた。
 残酷なほど蠱惑的な、温もりの誘惑が許すままに。

――THE END――


★アトガキと言う名の詫状★

 本館の小説を書いている途中で衝動に任せて書きたいところだけ書き逃げする予定だったのがつい夢中になって最後まで書いてしまったものを加筆修正。
『鉄鼠の檻』もなかなか美味しいですね。
 真壁が書くものは榎京と言うよりはむしろ榎木津→←京極なカンジの、プラトニックなようなメンタルなような――要するにキス止まりでさえもないようなBL風味の関係な二人が基本です。
 でも一線を超える日はあると思いますよ。
 私的に『塗仏の宴 宴の始末』の後なんですが。

 それはまたそのうち。


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