眩暈坂を下り、二人は中野駅に向かっていた。十五夜だった昨夜、中禅寺の家で思いがけず出くわして、酔い潰れて一泊させてもらった上に図図しくも朝餉まで御馳走になってそれぞれ帰宅する途中である。
「――大将は…来るような気もしたんすけどねぇ」
 話し掛ける言葉が見付からず、気まずさを覚え始めたのを察したように鳥口が口を開いた。
「益田君も一緒だとは思わなかった」
「僕も…真逆鳥口君がいるとは思いませんでしたよ」
 苦笑して、破られた沈黙にほっとする。けれどそうなった経緯を思い出して益田は表情を曇らせた。
「益田君」
「何ですか?」
「十月九日、仕事終わった後の予定空けといて下さい」
 横目で益田を見ながら鳥口は悪戯っぽく笑って一方的にそう告げる。理由を問うことも断ることも出来たのに、気付いた時には「いいですよ」と答えていた。

【善意の棘】

 そして十月九日。
 何故この日なのだろうと、ずっと疑問に思ったまま――そしてその疑問が解決されないままその日を迎えることになった。約束の日の数日前に事務所へ鳥口から電話があって、待ち合わせの時間と場所を指定される。
 尾行調査を終えて一度事務所に戻り、軽く片付けて荷物をまとめ自分で決めた定時で仕事を上がると待ち合わせの場所に向かうべく電車に乗った。もうどっぷりと日は暮れて、車内は仕事帰りのサラリーマンで混み合っている。吊り革に掴まり暫く揺られて待ち合わせの駅に着いた。
 改札を出ていつもの待ち合わせ場所に向かう。
「やっぱりまだ来てないか……」
 電車の時間の関係で、約束の時間より早く着いてしまうのはいつものことだ。
 だからいつものように壁に寄り掛かって遠く空を仰いだ。もう星の瞬きさえ見える。満月になりきれない月が東の方に見えた。
 冴えた月の光を滲ませた雲が流れていく。ぼんやりとそれを眺めていたら、
「――…お待たせ」
 と、鳥口が現れた。
 いつもなら後十分は待たされる。
「早いですね、今日は」
「電車が丁度良かったんすよ」
「そうなんだ」
「じゃあ行きますか。――いつもの店でいいすか?」
「いいですよ」
「混んでないといいんだけどなぁ……」
 いつも、先を歩くのは鳥口だった。今日もいつもと同じように先を歩く鳥口の後に付いていく。飲み屋の並ぶ表通り。行き付けの居酒屋もその中の一軒だ。暖簾をくぐって引き戸を開けて中に入る。空いていたカウンターに並んで座り、麦酒とつまみをそれぞれ好きに頼んで摘みながら近況や他愛のない話を肴に酒を飲み交わした。
「そう云えばさ」
 食欲も満たされ程よくアルコールが回った頃、ずっと尋きはぐっていたことがあったのを思い出す。
「何で、今日だったの?」
「へ? 何でって…何がすか?」
「だから、あの日突然今日空けといてって云ったじゃありませんか。何で今日だったのかなぁって…ずっと気になっていたんですよ」
 云い終えると鳥口は呆れたように「うへぇ…こいつは参った」と笑った。
「じゃあもう少し内緒にしておきましょう」
「え? 何ですよそれ隠し事ですか?」
「隠してませんて。僕は待ってる時の様子で益田君気付いてるんだと思い込んでましたよ」
「ますます解らないですよ……」
 自分が鳥口を待っていた時間を振り返る。
 ただ何となく空を眺めて月明かりを滲ませた雲が流れていくのを見つめていただけだ。そこに何か意味があるようには到底思えない。
「気になりますか?」
 自分の様子に、この約束を切り出した時のような悪戯っぽい笑みを浮かべて鳥口が尋いてくる。もう焦らされているようにしか思えない。
「こんなに勿体つけられたら気持ち悪いですって」
「それじゃあお勘定済ませて店を出ましょう」
「何その急展開」
 更に混乱して益田はテーブルに突っ伏して文字通り頭を抱えた。
「意味があるんですよ、そこに」
「解らないなぁ……」
 顔を上げると鳥口は既に席を立って支払いを頼んでいる。慌てて席を立ち半額を出して、店を後にする彼を追い駆けた。
「せっかくだから酔い醒ましに少し歩きますか」
「それは別に構わないけど……」
「この辺に土手とかあった?」
「あぁ…それならこっち――」
 尾行調査をしている途中でたどった道の記憶を呼び起こして鳥口の先を行く。何だか落ち着かない自分に驚いた。
 暫くすると橋が見えて来て、その両脇に土手が続いている。すすきが秋風にゆったりと靡き、仰いだ空には中途半端に欠けた月が浮かんでいた。雲は月を置き去りにして何処かへ行ってしまったらしく冴えた光が闇を削っている。
「そこですよ」
「え? 何処? って云うか何が?」
「だから、月」
「月?」
 一向に解らない。
「十三夜じゃないすか、今日。――知らなかったんですか?」
 可笑しそうに笑いながら益田を追い越して鳥口は土手を歩き出す。
「十五夜の満月だけ見て十三夜の月を見ないのは不吉だって師匠が話してた時、益田君まだおきてましたよねぇ?」
「あぁ…うん、その話は確かに聞きましたけど――」
 迂闊だったのかもしれない。
「十三夜なんて毎年違うんですから何時だなんて把握してませんよ。鳥口君こそよく知ってたね」
「実は師匠に聞いたんで」
「そう」
 ならあの人は今夜、彼とこの月を眺めているのだろうか。
 今日は出勤して早早に尾行調査で事務所を空けていたから一度も榎木津と顔を合わせていない。
「もう一年は経ちましたな」
 脱線しかけた思考を引き止めるように、鳥口は不意にそんなことを云う。
 何が、とは益田も尋かなかった。云われなくても判る。
「そう…ですね」
 足が、重さに負けたように止まった。
 ずるずると、彼の善意に甘えて気付けば一年が経ってしまっている。
 成長するどころか、あの時よりも自分はずっと狡くて卑怯で――酷い。
「すみません」
 責めて詰って突き放してくれたらいいのにと今でも強く思う。
 なのに彼は一度もそんなことをせずに、ただ傍らで自分が持て余しているものを引き受けてくれる。けれどその善意の棘は確実に自分に痛みを刻みながらその罪を思い知らせてもいた。なのに――。
「うへぇ、僕の方こそすみません。別にそういうつもりで云ったんじゃないんですが……」
「知ってる。だから…余計謝らなきゃいけないんだ、僕は」
 あの日、自分の立場を思い知った。
「僕は、鳥口君が思ってるよりずっと――狡くて…汚い」
「益田君」
 敵わないことを思い知って。
 なのに憧れは恋愛感情の方に傾き出していて。
 中禅寺との関係に遣り場のない想いの捌け口を見付けられずにいた彼に、慰めとは違うけれどただその遣り場のないものを少しでも預かろうとして抱かれたことだって、ただ何か――ほんの一握りの想いでも伝わって欲しくて彼を抱いたことだって、ある。
「最初にも云いましたけど、僕は見返りの感情を求めてるわけでもないんだからそういうのはナシにして下さい」
「でも…酷いことをしてる事実が変わるわけじゃないです」
「益田君……」
「解ってて、僕ァ」
 偶偶自分だったというだけでも彼のために出来ることをしたくて。
「あぁ…そうか。返って…来るんですねぇ……」
 漸く、振り返った鳥口に顔を向ける。
「ごめん」
 鳥口が自分に向けてくれるものは、ただ善意としか自分には呼びようのないもので。
 自分が榎木津に対して抱いているようなものとはきっと違うだろうけれど。
 それは、言い訳にさえならない。
 免罪の理由になど、ならない。
「馬鹿だ…今頃気付くなんて。因果応報ってこういうことか……」
 自嘲が洩れた。
 草を踏む音。揺れる草の音。月光の降る音さえ聞こえそうな気がする。
「やめましょう? そういうのは…云わない約束じゃないすか」
 伸ばされた手が頬に触れる。
 他人の体温が…今は、恐い。
「けど」
「あんまり云うとここで押し倒しますよ」
「…………」
「本人が気にしてないこと気にしたって損ですよ」
「気にして…詰ってくれればいいのに」
 恐いくせに、結局――抗えない。
 肩口に、顔を埋めて表情を隠そうとする自分はなんて卑怯。
「足踏み合うも多少の縁ってやつですよ」
 狡い。
「間違ってるのに…合ってる気がする、それは」
「お互い様ってことですよ」
「全然…お互い様じゃないですよ、僕らは」
 一年も経つのに変われない。まだ、断ち切るどころか募るばかりの想いに振り回されてこうして鳥口の善意に甘えている。
「お互い様ですよ。多分――僕はそのままで益田君のこと……」
 直感が走った。
 慌てて顔を上げて手のひらで鳥口の口を塞いだ。
「駄目」
「…………」
「それだけは駄目です。お願いですから云わんで下さい。云われたら…僕ァ」
 血の気が引いているのが解った。
 多分、今自分は相当酷い顔色をしているに違いない。
「僕ァ…もう、鳥口君とは会えません」
「――諒解りました。じゃあ…何も云いません」
 ゆっくりと手を剥がして、ひどく優しくそう言の葉を紡ぐと鳥口は掴んだ手のひらにそっと唇を寄せた。擽ったいような、甘い痺れが僅かな痛みを伴って体を駆けていく。
「でも…そうだな。その代わりに一つ約束して下さい」
「約束?」
「交換条件ってやつです」
「え?」
「そのままでいいって、僕が云ってるんですからもう割り切って下さい」
「…………」
「一年も経つんだし。――ね、約束」
 俯いた自分を、掴んだままの手を引っ張って抱き寄せる。
「――…イジワル」
 いつまでも慣れない他人の体温。善意の棘が小さな痛みをあちこちに刻む。
 なのにそれは甘い痺れにも似て少しだけ優しくて。
 秋風の冷たさに、少しだけ甘えることを許されたような気がして。
 ただ、音もなく頬を伝うものを、堪えることもせずそのままにしていた。
――THE END――


★アトガキと言う名の詫状★

 需要がないものを書きたがる、偏屈な管理人・真壁です。
 またしても鳥益です。でも今回は表用です。裏にupした【涙の行末】の一年とちょっと後くらい、先日upした【中秋の夜宴】のその後の話です。
 鳥益の、こういう焦れったい間合いと痛々しくて自虐的で後ろ向きな益田君がほんとに愛しいんです。書いていてほんと愉しい。内面を掘り下げつつ書くような痛い話を書くの大好きなので楽しかったです。

 鳥口君は、その開けっ広げな性格がネガティブな思考回路に陥りやすい人間を傷付けることもあるっていうのを知らずにやってるのか確信犯でそう振る舞っているのか判らない人だといいなと思っていたりする真壁です。

P.S.聞いていたわけじゃありませんが、BGMはUAの『情熱』がしっくりくると思いました。


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