それは偶然が齎した、所謂奇蹟のような一瞬で。
 触れては離れてを繰り返した温もりは、けれど翌日には何事もなかったように笑うから。
 言葉にならない感情に与えられた報いでも構わないとさえ、思った。
 甘美な報いの余韻に酔いながら、自分もただその傍らに寄り添い微笑う。
 背中を預けあって過ごす、この幸せな時間を失わないために。 

【偶然の接触】

 まだ正午前の時間に目を覚ました。いつもならもう一眠りしようと思うのだけれど今日は不思議とそんな気分にならない。
 ゆっくりと体を起こして伸びをする。
 窓の外には眩しい日差し。
「おぉ、久し振りに晴れている」
 ここのところ、日曜に狙いを定めたように雨が続いていたからそれだけで少し気分が高揚した。
 畳ベッドから降りて着替え出す。相部屋の人間は既に昼食にでも向かったのか気配がない。
 着替え終わる頃には感覚も目が醒めてきたようで、空腹を覚えたから食堂に向かうべく部屋を出た。
 寮の東側に向かって歩く。
 昼食時に重なったため、寮内に残っていた寮生が少しずつ集まっていた。
 その中に、見知った後姿を、見つける。
「中禅寺」
 声に反応してが止まった。
 肩越しに振り返って程なく彼は呼んだ相手――自分を見つけ出す。そして追い付くまで律儀にそこで待っていた。
「何だ、お前、いたのか」
「いますよ」
 人の流れに従って再び歩き出す。
「でも昼食を済ませたら出掛けます」
「ふぅん。――何処?」
「帝国図書館」
「上野の?」
「他に何処があるんです」
「決めた。僕も行く」
 いつものように強引に、云い切ってしまえば嫌とは云わないことを知っているからあえてそうする自分は狡いのかもしれない。けれど彼はそれを咎めたりはしなかった。
 代わり映えのしない食事をトレイに乗せて、窓際の席を確保する。他愛のないことを話しながら食事を済ませると、それぞれの部屋でお互いにほんのわずかな携行品だけ身に付けて寮を出た。
「うん、良い天気だ」
「ここのところ日曜はいつも雨でしたからね」
 秋晴れの空。
 程良く配置された雲。
 清しい風。
「偶には、一駅先まで歩きませんか?」
「いいよ」
 そう云わないなら、自分から切り出そうと思っていたくらいだ。拒む理由などあるはずもない。
 同じ歩幅で少し先を歩く。
 それを、同じリズムの靴音が追いかけてくる。
 通り沿いの家の庭木は常緑樹以外は皆少しずつ色を変えていた。既に葉の殆どが落ちかけているものもある。
「秋だなぁ……」
「今更ですね」
 苦笑する気配。
「立秋はとっくに過ぎているんですよ」
「風がキモチイイじゃないか」
 空を仰ぎながら歩く。
 目を閉じると、いつの間にか姿を消し去った夏に湿気を奪われた風が心地良く頬を撫でて行くのを感じることが出来た。
「うん、秋だ」
「転びますよ」
「転ぶものか」
 笑い飛ばして、だけど目を開いてまた前を見て歩くことにする。
「僕が一番好きな季節だ」
 肩越しに振り返って告げた。
 足が止まる。
 だから、自分も立ち止まる。
 意外そうに見開かれた目。
 聡い彼ならきっと言葉に込めた意味にも気付いているはずだ。
「御冗談を」
 柔らかに笑うとしかし、彼は予想外の言葉を返してくる。
「桜を見に行った時には矢っ張り春が一番だって云っていましたよ、貴方は」
「そんな昔のことなど憶えているものか」
 はぐらかされた。
 それが、面白くなくてまた視線を逸らして歩き出した。
「僕は、ずっと秋が一番好きなんだ」
 止まったままの靴音。
 追い駆けて来ない気配が少し寂しい。
「お前は?」
 呼ばれて、我に返ったようにまた跫が刻まれる。
「どの季節が一番好きなんだ?」
「……前に、答えましたよ。それは」
「知らない」
 問いから逃げるつもりなのだろうけどそうはさせたくない。
「いつ?」
 答えをせがむ。
「――…夏、ですね。きっと」
 曖昧に包まれた答え。
 期待したくなる。
「お前こそウソツキじゃないか」
「何故」
「湿気で手が汗ばんで本が傷むから夏は嫌だって、お前が図書室で散散愚痴っていたのを僕は聞いたぞ」
「それは本の保存上良くないという意味であって――」
「僕を騙そうとするからそういうことになるのだッ」
 笑い飛ばして歩く速さを少し上げる。
 開いた距離。
 それを、埋めようとする跫。
 夏を追いかけるようにして、この秋も気付いたら冬に変わっているのだろうか。
 昨年もそうだったはずなのに、今が特別過ぎて比較にならない。
 不満を飲み込んだ彼は、不機嫌そうに持ってきた薄い本を取り出し読みながら歩き出した。会話が途絶えたけれど特に苦痛は感じない。一方的に、思ったことや目に留まったことを口にすれば少しだけ棘のある言葉で応じてくれる。
「着いたぞ、駅だ」
「思ったより遠かったんですね」
「何だ、知らずに歩こうなんて云ったのか? お前」
「もっと近いと思っていたんですよ。誤算だ」
「らしくないな」
「偶にはそんなこともあります」
 そうやってまた、徒に期待を煽るのが彼の狡さ。
 切符を買い求めて鉄道に乗る。
 上野までの景色もすっかり様変わりしていて深まりつつある秋を感じた。
 下車駅から、上野公園を通り抜けて帝国図書館へ。
 気付けば晴れていたはずの空には雲が少しずつ増えている。
 館内に入ると中禅寺は、読む本を決めていたようで迷いのない足取りで書架の間を移動し何かの専門書らしいものを手にとって空いている席に腰を落ち着けた。手ぶらのまま、榎木津はその向かいに腰を下ろす。
 ページを捲る音が耳に心地いい。
 日当たりの良いこの席はひどく眠気を誘う。
 館内に漂う穏やかな空気と彼の気配に手を引かれ、つい睡魔の誘いに乗ってしまった。
 パタン、と本を閉じる音が目を醒ます。
「全く…帝国図書館に来てまで居眠りをする不届き者は貴方くらいでしょうね」
 苦笑して席を立ち本を返しに行く彼の、手にしていた本は来た時に自分が見たものとは違っていた。
「有意義であることに変わりはない」
「有意義が聞いて呆れますね」
 伸びをして窓の外に視線を投げればとうに夕方が訪れている。
「そろそろ帰りましょう。閉館時間も近い」
 戻って来た中禅寺の言葉を受け入れて図書館を後にした。
 雲間から覗いた太陽が、すっかり緋色に変色した光を一瞬だけ見せてまた雲に飲み込まれていく。仰いだ空は薄灰色の雲で覆われ濃い闇を地上に落としていた。
「何だか雨が降りそうだなぁ」
 上野公園を抜けて駅へ向かう。
 少し待たされて鉄道に乗り、寮の最寄り駅で下りた。
 駅前の道は天気の所為か夕食時だからか人も少なく暗い空がいっそう寂しげに街を彩っている。
 少し急いで歩き出した。空気はもう肌寒いくらいで、こんな中濡れて帰ることになったらきっと風邪をひいてしまうだろう。
 けれど五分もしないうちに、頬に冷たいものが落ちてくる。
「降ってきたな」 
 足を止めて灰色の雲を眺めやった。細い銀糸のような雨が瞬く間に地面に染みを描く。
「どしゃぶりだなぁ……」
 俄かに雨音が大きくなる。二人の声を掻き消す様に邪魔をする。
「眺めている場合ですか?」
 立ち止まった自分に合わせて足を止めた中禅寺は呆れていた。
「こっちだ」
 その手を引いて走り出す。
 急に引っ張られて転びそうになるのを何とか堪え、多分――口にしたかった文句を仕方なく飲み込んで彼も走った。
 表通りを逸れて裏通りへ。
 一本違うだけなのに、全然違う顔をしている街。
 民家も点在しているだけの寂れた道。
 何となく外の空気を吸いたくなって寮を抜け出し気の向くままに歩いた先で見つけた廃寺を目指した。そこなら誰に見咎められることもなく雨宿りが出来る。
 五分と少しは走っただろうか。
 幸いそこには先客もなく、広い軒先が二人を受け入れる。
「よく知っていましたね、こんな場所」
「この前見つけたんだ」
「無人になってそう古くはないようですね……」
 境内に向けられた懐かしそうな眼差し。
 彼の記憶の中に似たような古い建物が見える。知らない風景だった。
「おい」何処だ? そこは。
 尋こうとした言葉はしかし、彼の嚔に封じられる。
 片腕を抱くようにして擦りながらなかなか止みそうにない雨を見詰めていた。
「寒い?」
「それなりに。この時期に濡れるのは堪えますね、矢っ張り」
 また、彼の嚔が雨音に混じる。
 見下ろしたその姿があまりに寒そうで。
 思わず、その手を握って引き寄せた。
 見上げた目が、寒さの所為か少し潤んでいて。
 雨の滴る細く硬めの髪と、詰襟から覗く濡れた項が妙に艶めいていて。
「これも…いつかは思い出とかになるのかもしれないな」
 残された時間を思い遣った。
 一年と数ヶ月。こうして同じ学び舎で過ごせる限られた時間。
 気付けばいつも、あっという間に流れている。
「何故、今そんなことを云うんです?」
 深く澄んだ漆黒の目。
 少し怒っているようにも見える。
「雨の気紛れだ。決まっている」
 見上げた空は厚く薄灰色の雲で埋め尽くされているだけ。
 握った手に少し力を込める。
「先輩……?」
「そんな風に呼ぶなって云ったはずだ」
 せめて二人きりの時くらい、たった一つの年の差などに阻まれたくはない。
「名前で呼べ。じゃなきゃ僕は返事などしないよ」
 戸惑う気配。
 困らせたいわけではないのに上手くいかない。
 けれど、握った手を握り返してくるから期待してしまう。
 視線を向けた。
「榎…さん?」
 目が合った。
 衝動が体を駆けていく。
 彼は少し目を伏せて俯いた。
 身を屈める。
 呼吸さえ届きそうな距離。
 息を止めた。
 閉じられた瞼。
 そして――…

 唇に、触れる。

 束の間だけ重なった体温。
 込み上げて来たのはどうしようもないくらいの、愛しさ。
 二度、三度と繰り返す。
 おずおずと背に回された腕。
 自分の腕の中に閉じ込めた、温もり。
「……服」
「構うものか。これ以上濡れたところで困ったりなどしないよ」
 雨音はこんなに優しかっただろうか。
 冷えた体がひどく温かい。
 眩暈を覚えるような、濃密で甘美な一瞬の出来事。
 お互い、それ以上何も云わなかった。
 少しだけ雨脚が弱くなる。
 手をつないだまま、人目を避けるようにしてまた雨の中を歩き出した。裏通りでは擦れ違う人もない。
 沈黙が続いた。
 雨音と、足元の水を弾く靴音しか聞こえなかった。
 濡れるのも構わずに、こうしていられる時間を少しでも引き延ばしたくて殊更ゆっくりと歩く。
 けれど寮が近付く頃にはどちらからともなく手を離して。
 戻ってからも何事もなかったように振る舞って。
 淡い煌きのような何かが密やかに息づいていることを、その温もりが離れて行った途端に自覚する。思い知る。
 幾つかの――いや、幾つもの奇蹟が積み重なって生まれた時間だった。
 齎された偶然の接触は、夢のように曖昧だったけれど確かにお互いを繋いでいた。
 戻って来た寮の自室。扉を塞ぐように背を預けて目を閉じたまま天井を仰ぐ。
 白昼夢めいて甘美な奇蹟を確かめるように、手のひらにまだ残っているような気のする温もりを閉じ込めるように、そっとぎゅっと右手を握り締めた。
 心の奥底には、小さな棘のような痛みが生まれている。
 それを遥かに凌駕する、自分の中から溢れそうな喜びも、ある。
 いつもより少し速い脈に、自分がらしくなく緊張していたことを漸く自覚して自嘲した。
 握り締めたままのその手を見詰てみる。
 そこにはまるで、あの偶然の接触を齎した奇蹟が凝縮されて閉じ込められているような気がした。
――THE END――




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