まだ微かに揺れている。静かに小さな余韻を残す。
 だから、壊したかったのに。
 結局出来ずに彼の空気に満ちたこの部屋の扉を閉ざした。それでも消せない感情に、顔を背けて目を伏せて、踏み込めない聖域を思い知った。

【揺曵の夜】

 確かな形で許されてもいないけれどこれまで咎められたこともない。それを理由にして習慣化した日常。
 古書店街の裏手に建つ、一際モダンで目立つ石造りのビル――榎木津ビルヂング。
 先日受けた浮気調査の尾行を終えて益田はそこに戻って来た。
「ただいま戻りました」
 自分が戻って来ようと外出していようとこの探偵社の主は気にも留めないだろうけれど、いつもそう口にすることにしている。いつか不意に途切れた時に、それがないことに違和感を感じてもらえるような――彼の習慣の一つに組み込まれることを密やかに願って。
「今日は晴れてるからか暖かくて良いですねぇ」
 すっかり秋の気配に染まりきって、退勤する頃には肌寒さを感じるほど空気も冷たくなっているが晴れた日の午後などはまだまだ暖かい。
「あ、和寅さんお茶お願いします」
 接客用のソファの背もたれに上着を投げた。来客の稀なこの探偵社で、いつからかこの接客用テーブルが益田のデスクを兼ねるようになっている。秘書兼給仕役の和寅には小言を云われることもあるが探偵は何も云わない。
 座り心地の良いソファに身を沈めて、一向に開く気配の無いドアに視線を投げた。
 夜型の生活をしているらしい探偵の朝はいつも遅い。朝と言うより昼を過ぎてから部屋から出て来ることがほとんどだ。
「はいお茶」
 一つを益田に手渡してもう一つは自分用に、益田の向かいに和寅も腰を据える。
 要するに――今日もこの探偵事務所は特にすることもなく暇なのだ。
「榎木津さんはまだ起きませんか?」
 時計は既に十三時を回ろうとしている。
「起きた気配はないね」
「今日も相変わらずかぁ」
 お茶を啜りながら何となく投げた視線の先。探偵の私室と事務所を隔てるドア。最近はその開け方で機嫌が判るくらいには慣れてきた。
 会話が途絶えると街の喧騒が聞こえてくる。
 車の行き交う音や鳥の声。
 平和である。
 探偵が目を覚まして活動し始めるまでの、ほんの束の間の――平穏の時間。
 八つ当たりのように開かれるドアの音か不遜な高笑いか。
 大抵そのどちらかで幕切れになる。今日もそうだと思った。
「……お目覚めのようだな」
 あぁ、確かに物音がする。
 そこからが異様に長い。いつも理解し難いセンスだが、その、凡人には理解の及ばぬ基準でその日身に纏うものを決めている。
「ここから早くて三十分ってところですかねぇ」
「じゃあ私はお食事の支度をして来るから――」
「はいはい、依頼人が来たら丁重にお断りするか出直していただけばいいんでしょう?」
「頼むよ…君が勝手に仕事を受ける度に私が先生に叱られるんだ」
「あのオジサンは和寅さんや僕がすることをとりあえず否定するんですよ。その反応見て面白がって、事件の方が――本島君辺りが持ち込むちょっと変わったようなやつだと結局面白がって自分から、頼みもしないのに首突っ込むんです」
「あぁもう…まるで解ってないなぁ君は。とにかく勝手なことはしないでくれよ」
 苦苦しげに溜め息を吐いて和寅が炊事場に姿を消した。
 話し相手がいなくなったので、益田はさっきの調査結果をまとめ出す。
「えーっと……」
 とりあえず見たことを見た順に書き起こした。
 時折視線を上げては探偵の私室を気にしてみるけれど、まるで出てくる気配はない。
 そうこうしているうちに、一通り報告書の下書きが終わった。ソファの背もたれに体重を預け、天井を仰ぐ。
 ドアが軋む音がした。
 それに続く、靴音。
 一瞬和寅かと思ったが近過ぎる。
 ということは――…
「榎木津さん?!」
「ん? あぁなんだバカオロカじゃないか。いたのか」
「いますよ」
「相変わらず変質者の真似事をしているなぁ」
 頭のやや上に向けられた視線。恐らく記憶を視ているのだろう。
 専用の、大きな椅子にどっかりと腰を据えて頬杖を突く。窓の外を眺めやって「おぉ晴れじゃないか」と顔を綻ばせた。
 そう、寝起きにもかかわらず――今日の探偵は機嫌が良い。極端な躁の状態ではなくて、常体で機嫌が良い。服装も、いつもの奇抜さが嘘のようにおとなしい。横縞の入った長袖のTシャツに、黒く少し硬そうな生地のズボンを穿いている。
「和寅は?」
「食事の支度しに行きましたけど……」
「ふぅん」
 本当に上機嫌だった。奇跡的な、と云っても過言ではないだろう。
 突然立ち上がると探偵は洗面所の方へ歩いて行って、顔を洗って身形を整えて戻って来た。
 それを追い駆けるように、出来立ての食事を盆に乗せた和寅の姿。
「これを食べたら僕は出掛けるぞ」
「お出掛けですかい? どちらへ?」
「知らない」
 食べ散らかしながら答えた表情は、何処か楽しげで矢張り上機嫌だ。
 そして上機嫌なまま、食べ終えると洗面所で歯を磨いて必要最小限の携行品をポケットに入れて、益田にも和寅にも一瞥も呉れず事務所を出て行った。
「どう…しちゃったんですかね、アレ」
「頗る機嫌がいいことだけは確かだな」
「夢見が良かったっていうのとは違いますよねぇ」
「夢見が悪くって不機嫌なことはよくあるがその逆はまずないよ。夢見が良かったなら精精寝起きが良い程度だ」
「ですよねぇ」
 榎木津の食べ散らかしたままの食器を盆に回収して、デスクを拭くと和寅は会話もそこそこに台所へと引っ込んだ。
「何でしょうねぇ…もっと、こう…楽しみにしてた約束の日、みたいな――…」
 思い付きで口にした言葉にはっとする。直感した。恐らくそうだったのだ。
 鈍い痛み。
 疼き出して、思考を遮断する。
 約束の中身など考えたくもなかった。知りたくもない。もう、考えたくもない。
 探偵の去ったデスク越しに、封じられたように扉の閉まったままの私室に視線を投げた。
「榎木津さんの部屋…そう云えば入ったことないなぁ……」
 禁じられているわけではないけれど、何となく近寄り難くて踏み込めない。まるで聖域のように、その領域を侵すことを自らに禁じてしまう。偶に、洗面所の方へ行く途中、開け放ったドアから室内が見えることがあっても何となく背徳い気持ちになる。
 頭を振ってそんな気分を振り払い、午前中の調査結果の清書に入った。意識を逸らしたい時は、こういう単調な作業が一番良い。
 一枚目が書き上がる。
 目も腕も少し疲れていた。伸びをして背凭れに寄り掛かる。いつしかすっかり見慣れた天井には、愛煙家の探偵とその友人達の紫煙によって不可思議な染みがうっすらと描かれていた。
「そんな格好をしていて引っ繰り返らないでくれよ」
 洗い物を終えたらしい和寅が、珈琲の香ばしい香りを伴って戻って来た。
「嫌だなぁ和寅さん、そんな間抜けなこと関口さんならいざ知らず僕ァしませんて」
 テーブルに置かれた珈琲に、たっぷりとミルクを注いでスプーンで混ぜる。
 念入りに冷まして口を付けると仄かな苦みと心地好い香りが疲れを癒してくれているような気分に浸ることが出来た。
「私はこの後買い出しに行って来るから益田君少し留守番頼んだよ」
「いいですよ。でももし出掛けることになったら鍵掛けて行きますから一応鍵持って行って下さいね」
 珈琲が空になるまで他愛のない雑談に興じ、空になったのを機に和寅はカップを片付け買い物に出た。
 益田は書類書きを再開する。
 平静が戻ってきた。そう思った矢先に静寂のドアを叩くベルの音。
「和寅さーん、電話」
 呼んでから思い出す。
「って…買い物に行ったんだった」
 ペンを置いて電話機へと急いだ。
「はい、薔薇十字探偵社」
『遅いッ! 何のために音が鳴ると思っているのだこのオロカモノ!!』
 出るなりの罵倒。
 相手は確かめるまでもない。
「すみません」
『ん? 何だマスカマじゃないか。和寅は何してるんだ?』
「和寅さんでしたら買い物に行きましたけど――」
『買い物? あのゴキブリ男はそんな芸当ができるのか!』
 酷い云われようである。
 尤も――榎木津にかかれば大抵どんな人間も酷い云われようになるのだが。
『じゃあ…仕方がないなぁ』
「あの、伝言で良ければ――…」
『あぁバカ。なんてオロカバカなんだお前は。伝言で足りるような用なら電話なぞするものか。いいか、電話というのはすぐに用件を伝えるために使うんだろうが』
「はぁ」
 珍しく正論ではあるのだけれど。
「お急ぎなんですか?」
『そうでなければ電話なんてかけない!』
「まぁ…それは仰る通りで」
 対応しきれない。
 随分慣れたと思ったけれどまだまだ経験値が足りないことをこんなことで思い知る。
『おい、バカオロカ』
「はい」
『お前で良いから今から僕が云うものを探して届ける。――いいな』
「えっ? 探して届けるって…一体何ですよそれ」
『馬鹿者、それをこれから云うのだ』
「はぁ」
『一度しか云わないからな』
 そう宣言した声は、いつものように傲慢な口振りなのに何処か気恥ずかしそうで。
 少し戸惑いながら一方的に切れた電話を元に戻し、榎木津の私室の扉を開けた。
「眩し……」
 西日がまともに差し込んで一瞬目が眩む。
「お邪魔しまーす」
 遠慮がちに一歩踏み込んだ。
 榎木津の部屋。
 肌が、感覚がそうだと感じ取る。彼の気配に満ちた空間。
 自分は今、ずっと聖域のように踏み込めなかった領域に居る。
「えーと…兎に角机、机……」
 意識を逸らすように用件――命令の遂行に集中した。
 開いたドアの隙間から、相当に散らかっているのが時折窺えたし相当に散らかっていることを聞かされてもいたが、実際に目の当たりにするとそれは予想以上の惨状で絶句する。服や楽器やらが混沌としていて、比較的目立つ家具だと思われる机が一瞬で認識できないくらいだ。
「勝手に片付けたら怒られるんだよなぁ……」
 溜息は自然に口を吐いた。
 頭を掻きながら、しかし命じられてしまった以上何とか探し出して届けないことにはまた酷い目に遭わされるのがオチだと諦め任務の遂行に励む。
 ふと視線をめぐらせると、日の当たらないベッドと壁の隙間に立て掛けられた鏡越しに机らしきものが見えた。
「あぁ、これか」
 脱ぎ捨てられた上着に埋もれて気付かなかった。
 歩み寄れば、それが木目の美しい高級な材木で作られた机であることが見て取れる。
 鉛筆や筆、見慣れない画材と思われるものが散らばっていた中に。
「これ…かなぁ」
 縦が二十糎、横が十五糎くらいの大きさの紙袋。
 買ったままのようでもあるし、贈り物として購入されたもののようにも見える。重さからして布製品のようでもある。
 他にそれらしいものも見当たらないから恐らくそうだろう。
「後は届けるだけか」
 指定された駅は、神田から中野方面へ向かって三駅目。
 途中で気付いて降りたのか、それとも――もともとそこが目的地なのか。
 考えても詮無いことと苦笑して思考を振り払い部屋を去ろうとして。
 けれど許されて立ち入った聖域からは立ち去り難く、もう一度――机の上から視線をめぐらせてみた。
 そして。
「写真?」
 趣味のいい西洋骨董のような写真立てに縁取られた過去の断片。
 あの傍若無人な探偵には不似合いな気がして思わず手に取った。
 今よりも数年過去の時間が切り取られている。
 落成式だろうか。ビルの前に見慣れた面面が並んでいた。榎木津は一人笑顔、その隣に立つ中禅寺は相変わらずの仏頂面で、関口は相変わらず伏せ目がちに猫背で怯えた様な顔をしていたし木場は憮然として横を向いている。
「変わってないなぁ……」
 呟いた時に、気付いた。
 榎木津の手が。
 誰の目にも不幸そうに映る表情で腕を組んでいる古書肆の肩を強引に引き寄せるように伸ばされていて。
 それを――見咎めるように憮然としながらも古書肆は何処となく照れ隠しに取り繕った表情をしているようにも見えて。
 心臓が痛い。
 脈が速い。
 呼吸の仕方が解らなくなってくる。
 込み上げてくる衝動。
 壊したい。
 けれどそんなこと――できない。
「クソッ」   
 毒吐いて、写真立を思い切り伏せた。
 そして机を覆い隠す服の中に、隠した。
 気休めだ。
 ただの八つ当たり。
 敵わないことなんて初めから解っていたのに。
 矢張りここは聖域だったのだ。
 自分は決して踏み込んではいけない場所。
 二三歩後退って、そのまま回れ右をして部屋から出る。逃げるように事務所を通り抜けて鍵を掛けて階段を駆け下り駅へ走った。
 切符を買い求め、ホームに丁度滑り込んで来た電車に駆け込んで、指定された三駅目で下りる。榎木津の姿をホームに探す。
 灰皿の処で紫煙を燻らせていた。
 せめて、その時間くらいは自分が来ることを待ち侘びて思考の一割くらいは自分のことで埋まっていたならと思う。
「お待たせしました」
 走った所為で息が切れた。
 顔をまともに見られない言い訳に救われる。
「これ…ですよね?」
「そう」
 嬉しそうな声。
 けれどそれは――きっとそれを手渡した時の相手の反応を想ってのものだ。自分への礼ではない。期待なんかしてない。
「お前、もう帰ってもいいぞ」
 矢っ張り――こんなにも彼は素っ気無い。
「それじゃあ僕ァ帰りますからね」
 泣きたくなった。
「ナキヤマ」
 視線。
 頭の上の方に据えられている。
 視たのか。それとも――視えたのだろうか。
 どっちでもいい。
「何です? まだ忘れ物ですか? 生憎ですが僕ァこのまま帰るんでまだあるなら和寅さんに頼んで下さい」
 顔を上げられない。
 目をあわせられない。
 視線が恐い。
 泣ければ良かったのに、泣けない。
「――…おい」 
 耳を疑った。
 そんな科白が聞きたかったわけじゃないのに。
 何も云えず、云わずにに踵を返して乗って来たのと逆方向のホームに向かった。
「ありがとう…の方が嬉しかったな」
 自嘲する。
 もう、今更どうしようもない。
 電車はこの駅に向かう途中で何かトラブルがあったらしく遅れているらしい。駅員がそれを告げて回っている。
 結局かなり待たされて探偵社に引き返した。
 景色は既に夕暮で、頭を冷やすためにわざと遠回りをしたら道に迷ってどうにかこうにか事務所に戻る頃にはすっかり夜になってしまっていた。
 石造りビルの階段室はもうこの時間になると空気が肌に冷たい。
 三階まで上ってドアノブを捻る。抵抗なく開いた。和寅が帰って来ているらしい。
「ただいま」
 静かな事務所。
 彼の気配のしない場所。
 今はただ重苦しく圧し掛かる。
 重い足取りで接客用のテーブルに歩み寄って書類を片付けた。
「何だ益田君帰ったんじゃなかったのか?」
「あのオジサンに遣い走りにされたんですよ。和寅さんがいないからもう散散です」
 本当に散散だ。
 自嘲に苦笑が混じる。
「オマケに帰りの電車は何だかトラブルが起きたとかで遅れるし…おかげでこんな時間です。ちっとも仕事になりませんて。僕ァもう草臥れましたよ。今日はもう帰って寝ることにしようと決めたんです」
 まだ平静を取り戻せない。
 気付かれる前にここを去りたい。
「それじゃあ和寅さんまた明日」
 荷物を鞄に突っ込んで慌しく事務所を去る。不自然だっただろうか。でも、それを明日追求されたとしても今根掘り葉掘り掘り起こされるよりマシだと思った。
 階段室に響く自分の靴音。
 余韻に新しい音が重なってく。
 自分も同じだ。
 傷に似た痛みを引き摺りながら、また新しい痛みを重ねている。
「揺曳…って云うんだっけ」
 後まで長く残る。
 行きつ戻りつしてゆらゆらと靡き動く。
 音楽よりも身に染みて痛んで全身に響き渡る。
「こんなの…あんまりじゃないですか」
 石段の途中。
 壁に凭れてそのままずるずるとしゃがみこむ。
 あの電話でのぎこちなさは、きっと――こんな自分を見透かされていた所為なのかもしれないと考えるのは思い上がりだろうか。
 声を堪えても溢れるものは止まらなくて。
 揺曳の夜はただ静かに更け行くばかり。
 ただ近付く程に敵わないことを思い知るジレンマ。
 憧れを超えた想いの遣り場など何処にもなくて、こうして無理矢理抑え込んで揺曳に目を伏せながらまた強引に立ち上がる。
 手の甲で拭った雫のように、拭い去れたらなんて思った自分にに自嘲した。
 そしてまた刻み出した靴音は、夜に溶けて過去に同化する。
 断ち切れない思いを引き摺ったまま。
 新しい痛みを重ねるように。今日の痛みから逃げるように。
――THE END――


『益田祭』開催おめでとうございます&ありかどうございます!!
 今回お題の『05:榎木津さんの部屋』担当させていただきました(^^*)

 榎木津さんの部屋は、益田君にとっては聖域に等しい場所だと思うのですよ。
 トイレに立った時などに、開いたドアの隙間から中が覗き見えることはあっても入り込めない。自粛もあるし抵抗もある。見たいけれど見たくないものもたくさん見てしまいそうで恐い場所ではないかなぁと。
 そんな思い(妄想)に忠実に執筆してみたら斯様にちょっち痛いテイストの榎京←益な話になりました。報われない益田君の、痛々しく恋愛感情と憧れの狭間で揺れてる様が愛しくて堪りません。

 ちょっと屈折してるかもしれませんが(苦笑)、それでも愛を込めて書きましたvv
 少しでも益田君の痛みを汲んでいただけたら幸いです。 


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