――一九五二年に砂糖及び小麦の統制が解除され、日本の洋菓子業界は漸く息を吹き返した。それ以降は冷蔵ショーケースや冷蔵庫の普及にも支えられ、ショートケーキやモンブラン、シュークリームなど様様なケーキが洋菓子店の店頭に並ぶようになる。
 戦争の爪痕が完全に消えてはいないまでも、着実に復旧を遂げ豊かさを取り戻しつつあった。
 視線の先に見えた洋菓子店の看板にそんなことを思った矢先。
 彼は、自分と同じように遠目に洋菓子店を見詰めるシルエットを見つけた。

【甘味の誘惑】

 ちょっとした悪戯心に従って、近くの路地に入り遠回りを試みる。そして後ろに回り込むことに成功した。
 先程足を止めていた彼はもう既に歩き出している。少しずつ距離を詰めて――丁度、洋菓子店の前に差し掛かってたところで追いつき声を掛けた。
「あんなに見詰めていたのに寄らないのか? お前」
 一瞬強張った背中が緩んで微苦笑とともに肩越しにこちらを振り返る。
「何時から、僕に気付いていらしたんですか? 総一郎さん」
「あれ? もう気付かれちゃったの?」
 弟の振りをして声を掛け、騙されるという反応を期待していたのだが今日も空振りに終わってしまったらしい。
「判りますよ、別の人ですから」
 こちらに向き直ってそう云うと、礼儀正しい彼は「お久し振りです」と改めて口にした。
「大抵は騙されてくれるんだけどなぁ」
「腐れ縁とは云え長い付き合いですからね」
 淡く笑った表情からは言葉にしたこと以外の理由の存在を感じるけれど受け流す。
「うーん、残念」
 さして残念でもなさそうにこぼして苦笑した。
「中禅寺君は仕事?」
「えぇ、もう済んだところですが――…」
「僕? 僕はね、気分転換と云ったところかな。特にやることもない時間が出来たら散歩。そうしたら、丁度」
 親指を立て、左手にある洋菓子店を指す。
「そこのね、看板をぼんやり見てる中禅寺君が見えたから。後ろから声掛けたら騙されてくれないかなって期待して回り込んでみたんだけど。また失敗しちゃって。そして今に至る…と」
 声を掛けた時よりも少しだけ驚いた顔をして、中禅寺は苦笑した。
「そんなところから御覧になっていたんですか?」
「僕もね、同じことしてたから」
「最近よく見掛けるようになりましたね」
「そうだね、普及してるな。喫茶店とか、もう少しお洒落なカフェとか。ケーキを扱うお店も増えてるし。僕が開いてるお店や保養所なんかでも扱ってるんだけど」
 一度、そこで言葉を区切ると総一郎は何かを思いついたような顔で、
「仕事は…もう、終わったんだったよね」
 と、確認するようにこぼし。
「この後の予定は?」
 唐突に尋ねてきた。
「特に何もありませんが――」
「甘いもの、嫌いじゃないよね?」
「それは…えぇ」
「だよねぇ…奥さんの御実家が和菓子屋さんなんだし」
「憶えていらしたんですか?」
「勿論。寄ったこともあるよ。仕事で京都に行った時とかにね。大福と――最中が美味しかったな。礼二郎は最中嫌いなんだけど、京極堂さんのは上顎に最中が張り付かなくて。舌の上ですっと溶けるような食感だから食べられるんじゃないかな…って勧めたんだけどね。どうにも駄目みたいで。勿体無いよねぇ…美味しいのに」
 彼の弟が最中を食べたがらないのには他の理由があるような気もしたが中禅寺はそこに目を伏せて「有難うございます」とだけ口にした。
「と、いうわけで」
 総一郎が端正な顔を綺麗にほころばせて、
「ちょっと、付き合って?」
 と、断るのがひどく無粋に思える誘いを向けてくる。
 返答に窮した中禅寺が言葉を探していると、総一郎は既に踵を返して歩き出していた。
「総一郎さん?」
 せめて行く先だけでも尋ねようと呼んだ声に応じる気配はない。
 溜め息を一つ吐いて仕方なく、中禅寺はその後に続いて歩き出す。こういう、少し強引なところは弟と確かに似ているかもしれない。もっとも――弟の強引さはこんなものではないのだが。
「近くにね」
 後に続く跫の主をちらりと肩越しに振り返り、総一郎は言葉を継いだ。
「お勧めの店があるんだけど。――あ、そこの角を左ね」
 喧騒から少し距離を置いた通り。路地と云うほど寂れているわけではないが静かだった。
 会話が途切れたまま真っ直ぐ行くと古色を帯びた飲食店らしい建物がすぐに見えてくる。通りに面した窓から覗く店内の風景はこの通りと同様に喧騒から無縁のような落ち着いた雰囲気が漂っているよう。
「ここね」
 ドアに手を掛けた総一郎が告げる。軽く押すと軽やかな音色が来客を告げた。中禅寺もその後に続く。
「今日はね、二人」
 女給にそう告げて窓際の空いている席を選んで腰を落ち着けた。
 向かい合って座ると何だか僅かに背徳いような気分になる。
「どうかした?」
「いえ」
「そう?」
 水の入ったグラスを乗せたトレイを手に、女給がメニューを届けに来た。
 グラスをテーブルに置き、メニューを総一郎に手渡して一礼しカウンターの内側へと戻る。
「珈琲の好みとかある? 苦手なのとか…あ、紅茶派?」
「いえ、特には……」
「そう。なら僕のお勧めで構わないかな?」
「お願いします」
 片手を上げて女給を呼ぶ、そういう仕草が本当に嫌味ではない。
 モカとモンブランを二つずつ頼んでメニューを返した。
「偶にね」
 不意に話し掛けられて中禅寺は嗜好を目の前の美麗な男に戻す。
「あぁ、さっきの続きなんだけど」
「えぇ」
「こんな風に――時間が空いた時とかにね。気になるお店に立ち寄ってお茶をするの。他のお店がどんなもの扱ってるのかとか、矢っ張り気になるし。勉強になるしね」
「甘いもの、お好きなんですね」
「意外?」
「少し」
「結構、色色と好きだよ。やっぱり…和菓子が一番好きなんだけど。洋菓子は洋菓子で好きだし。和菓子とは違った甘さだよね」
「確かに」
「中禅寺君は甘党でしょ?」
「御存知でしたか」
 僅かに苦笑すると「勿論」と笑顔で返された。
「和菓子派?」
「そうですね…どちらかと云えば」
「洋菓子はあんまり食べない?」
「そんなことはないと思いますが…そうですね、頻度は確かに低いですね」
「奥さんに遠慮してる?」
「あれはむしろ実家にいた頃自分が遠慮していたから珍しいものを見つけると自分で買って来るくらいです」
「確かに、自分の家が和菓子屋さんじゃ商売敵だものねぇ。手を出し難いか」
 上品に小さく笑ったタイミングで、女給の跫が聞こえて来たので二人はそこで一度会話を区切る。
「お待たせ致しました。モカとモンブランでございます」
 それぞれの前に並べ「ごゆっくりどうぞ」と云い置いて一礼し戻って行った。
「ここのモンブランはね、ちょっと凝ってるんだ」
「それは楽しみですね」
「食べてみて?」
 テーブルに頬杖を突き、もう片方の手でケーキの皿を示す。
 視線が少少擽ったかったが中禅寺はフォークを手に取りケーキを一口分削り取って口に運んだ。
「珍しいですね…スポンジの土台の中にもクリームを用いているものは初めて口にしました」
「でしょ? 僕はね、ここのモンブランが一番好きなんだ。スポンジもしっとりしててクリームの甘さと合ってる」
 満足そうに褒め言葉を口にして、総一郎も自分のケーキに口を付けた。珈琲も丁寧に淹れられており香りがよく苦味も程よく効いている。そのままでケーキの甘さと調和がとれていたので添えられた小瓶のミルクは注がずにそのまま楽しんだ。
「きっとね、洋菓子はこれからもっと流行すると思うんだ。今はまだ保存の問題があるけど、それもこの先解消されるだろうし」
「楽しみですね」
「そうしたらきっと、和菓子――甘味処なんかも負けじと頑張ってくれるんじゃないかな。そうだと嬉しいんだけど」
 ケーキを食べながら互いにお勧めの洋菓子店や和菓子店、喫茶店など甘味処の情報を交換する。総一郎は矢張り仕事の関係か詳しかった。
「あ、中禅寺君。口許」
「え?」
「クリーム付いてる」
 小さく笑って自分の口許を軽く指で叩いて示す。
 指摘されて、中禅寺は同じ場所を指で拭った。
「そっちじゃなくて」
 しかし。
 鏡ではないので左右が逆だったらしく拭いそびれていると。
 すっ、と向かいから指が伸びてきて。
 口許を拭い。
 指に付着したクリームを、当たり前のように――舐め取る。
「す…すみません」
 まともに顔を見ることが出来なくなって中禅寺は顔を俯かせて辛うじて礼の言葉を口にした。赤面しているのが自分で判った。顔が、ひどく、熱い。
「どういたしまして」
 総一郎は一向に気にした様子もなく珈琲のカップを手にしている。
 口許を覆ったまま硬直している中禅寺を少し珍しそうに眺め、けれど何かを察したようで何事もなかったように取り留めのない話を再開した。
 俯いたまま深呼吸を一つ。
 表情を作り、平静を纏う。
 目を閉じて、もう一度深く息を吐き出して。
 微苦笑しながら中禅寺は総一郎の話に耳を傾けた。
 そして互いのケーキと珈琲が空になった頃、
「よし、じゃあ中禅寺君は僕と甘味同盟を結成しよう」
 と、またしても唐突に、突拍子もないことを総一郎は口にした。
 自分の耳を疑って聞き返すと、総一郎はもう一度「僕と甘味同盟を結成しようって云ったんだけど」とあっさり告げる。
「嫌?」
「そんなことは――」
 彼には、多分独特の磁場のようなものがあって。
 あらゆる誘いや提案において否定するという選択を躊躇わせる。
 弟よりも余程性質が悪いかもしれない。弟の方はもっと露骨で強引だから邪険に断ることもできるのだが、彼は決して強要はしない。しないが既に問いとして投げられた時点で決定事項として彼の中に答えがある――ように思えるのだ。
「じゃあ、決まりね。活動は、偶にこうして僕の仕事に付き合ってくれると有難いな。人の意見が聞けるのは助かるし。それ以外にも、新しいお店を見つけたらその情報を交換し合ったり。実際に調査に赴いたり。そんなところかな」
「調査?」
「そう、実地調査。実際にそのお店に行って食べてみなきゃ美味しいかどうか判らないじゃない?」
「それは――そうですが」
「僕の仕事に付き合ってもらうときは僕の都合だから経費で払うから」
「いけませんよ、そんな」
「礼二郎の迷惑代だと思ってくれればいいよ。あいつのことだからどうせいつも手ぶらでお邪魔して勝手気儘に振舞ってるんでしょ? 手土産の前渡し――後かもしれないけど。まぁ…そんなものだと思ってくれればいいよ」
「ですが総一郎さんから受け取る理由にはなりません」
「細かいことは気にしない」
 笑顔で告げられるとそれ以上の反論は飲み込まざるを得なかった。
「と、いうことで今日は記念すべき結成の日だし、僕が無理に付き合ってもらったから僕の奢りね」
 テーブルの端に伏せて置かれた伝票をさり気なく手にして席を立つ。
「あ、あの」
 呼び止める声は届いていない。
 慌しく席を立って会計をしている総一郎に歩み寄るが総一郎は既に会計を済ませてドアに手を掛けていた。
「総一郎さん」
 ドアベルの音に見送られて店を出る。
 店の外で総一郎は煙草を一本銜えて火を点けていた。
「何?」
 甘い香りの紫煙を燻らせる煙草を手にして歩き出しながら彼は問う。
「あぁ、活動は不定期だから僕から連絡するよ。暇な時だけ付き合ってくれればいいからそんな堅苦しく考えないで?」
 元の通りに戻ると視界が急に明るくなった。
「予定があるなら勿論そっちを優先してもらって構わない。ただもし中禅寺君が何か情報を手に入れたなら連絡して欲しいな。えぇと――」
 不意に足を止め、スーツのポケットを探って名刺入れから一枚を抜いて差し出す。
「ここに、お願いしてもいい? 一応事務所だから誰かしらいるし。多分、ここが確実だと思うんだ。僕は捕まらないかもしれないけど伝言はしてもらえるから」
 完全に総一郎のペースに飲まれていた。
 いや、今日会ってからずっとそうだったことに改めて気付かされた。
 どうも――この兄弟は人のペースを乱すことにかけては卓越した技量を持っているらしい。
「今日はありがとね」
 出会った場所までくると改まって総一郎は口にした。
「おかげで随分気が紛れたよ」
「いえ、そんな……こちらこそ」
「じゃあ、また」
「はい。また――」
 また?
 拙い。結局御馳走になってしまう。
「あの」
「何?」
 既に自分の目的の方向とは反対の方へと歩き出していた総一郎が肩越しに振り返った。
 その顔を見たら、不意に。
 ひどく――ひどく彼に振り回されている自分を自覚して。
 何だか可笑しさが込み上げてきた。
 彼にはきっと、深い意図も含ませたものもないのだろう。
 なら素直に甘えても良いのかも知れない。
 そんなことを思う。
 だから。
「今日は…御馳走様でした」
 口にしようとした言葉の代わりにそう告げた。
「こちらこそ、付き合ってくれてありがと」
「ではまた」
「うん、またね」
 甘味の誘惑に惹かれた二人で結成した甘味同盟。
 次回の活動はまだ未定。
「ついでに礼二郎の顔でも見て行こうかな」
 中禅寺に背を向けて歩きながら一人ごちる。
「あぁ、でも邪魔になるといけないから今度でいっか」
 すぐに思い直して仕事場へと歩き出した。
 今度弟に会った時のことを考えて小さく笑う。
「次は何処のお店に付き合ってもらおうかな」
――THE END――


『第1回・総兄祭』への寄稿その2(その1は祭りの特設ページ用のイラスト)・甘味同盟こと【甘味の誘惑】です。
 総兄は甘い物好きだといいなと思っています。
 秋彦は言わずもがな、甘党ですよね公式ですね。
 なので榎さんの与り知らぬ所で「甘味同盟」なるものを結成し、甘味どころで白玉つついたり和菓子屋さんの新作を試したり、喫茶店でお茶したり――と、逢瀬を重ねてみたらいいと思います。そして榎さんが妬いたらいいですね。兄上には怒り、何であんなのとお茶に行くんだと秋彦を責める。「ならあんたも来ればいいじゃないか」と秋彦が返せば「なんであんなのと一緒にお茶に行かなきゃならないんだ」と怒り、秋彦が「総一郎さんに教わったんだが――」と榎さんを案内しようとすれば嫌だと拒む。

 総兄は、榎さんと京極の関係にほどよい(?)刺激を齎す御方ではないかと睨んでいます。


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