体を支配する甘い疲労感。刻まれた微かな痛みの罪悪感。その両方に背を押されて、彼はとても自然にその選択をすることができた。
「明日、明石先生の所へ挨拶に行って来ようと思う」宴の懺悔をしに。
 多分、それで本当にあの下らない宴の始末が付けられたことになるのだろう。
「そうか」
「会って、もらえないかもしれないがね」
 憂いを帯びた顔に、
「一緒に行ってやってやろうか?」
 探偵は悪戯っぽい顔をして、出来るだけ軽くそう口にし。
 陰陽師はつられたように小さく――淡く、笑う。
「子供じゃあないんだ。独りで平気だよ」
「そうか」じゃあ、行って来い。
 後頭部を優しく二度叩かれた。それが抗い難く睡魔を呼び込んで、そのまま――ひどくシアワセな気分のまま、彼はやっと安堵した表情で眠りに就いた。 

【宴の懺悔】

 漂ってくる朝の気配に、彼の記憶は少しだけ混乱した。妻は、まだ京都にいるはずだ。
 身動ぎをすると体に痛みが走った。昨夜のことが夢ではない証のように、背徳への咎のように――意識を現実に引き戻す。
 自嘲とも苦笑ともつかない笑みをひとつこぼして彼は布団の温もりを手放した。
 着替えを選び、和服に袖を通す。居間と床の間を隔てる襖を開けると既に朝餉の支度が整えられていた。台所の方から鼻歌が聞こえてくる。
「おぉ、起きたな」
 廊下から姿を見せた探偵の明快な声。こんな時間なのに機嫌はいいらしい。
「今ので一気に目が覚めたよ。――これ、あんたが作ったのか?」
「そう。僕は基本的にできないことはない」
 湯飲み二つと急須を手に現れた探偵は厭味なく口にすると、さっさと顔を洗って来いと主を洗面所へと急き立てた。
 流されるようにして洗面所に向かう。顔を洗って口を漱ぎ、奥座敷に引き返すと探偵はお茶を啜りながら主が戻ってくるのを待っていた。
「遅い!」
「先に食べていると思ったんだ」
 いつもの席に古書肆が腰を下ろしたのを機に、箸を手にして朝食を口にする。
 食器と卓袱台とが触れる音。食事の気配。鳥の鳴き声。動き出した町の音。
 けれど、二人の間に会話はない。
 ただ、静かに――用意された朝餉が口の中へ運ばれていく。
 不思議と、気まずさを感じることはなかった。
 いや、そう思い込みたいだけでお互いに何処か気まずさを隠し切れずにいるのだろうか。
「落ち着いたか?」
 不意に尋ねられた。
「あぁ、もう…平気だよ」
「行くんだな」
「……そうだね。会ってもらえなくても行くだけ行ってみるよ」
 淡い笑みを浮かべる面に手を伸ばして、その額を指先で軽く弾いた。
「そんな顔ばかりしているからお前は負わなくてもいいものまで負うことになるのだ。自覚しろ。そして改めろ!」
「無茶苦茶だなぁ、あんたは」
 苦笑して食事を再開した。
 その後、気紛れな神が洗い物をしている間に出掛ける支度を整える。探偵の方が少し時間がかかった。
 特に言葉を交わすでもなく連れ立って玄関に向かう。
「あんたに見送られるとはなぁ。自分の家じゃあないみたいで落ち着かないよ」
 廊下が尽きるのはあっという間。
 古書肆は履物に足を通し探偵を振り返る。
「じゃあ、行って来るよ」
 宴の懺悔をしにね。
 淡く笑う古書肆と向かい合ったまま、効果的な探したけれど見つからなかった。
 何を云うのが一番効果的なのか、それを瞬時に選び最適のタイミングで口にする技量は生憎備わっていない。
 だから、探偵は言葉を選ぶ代わりに古書肆の頬に手を伸ばしてそっと触れた。
「――…榎さん?」
 漆黒の目が僅かに見開かれる。そこに、自分の顔が映っていた。
 笑いかける。多分、それが一番いい。
 身を屈めて額に小さな口付けを与え、唇に――自分のそれでそっと触れる。
「行って来い」ちゃんと、待っててやるから。
 見送りを背に古書肆は家を出た。
 中野駅へ向かい、切符を買い求め改札を通る。電車を待つ人はまだ少ない。中途半端な時間だからだろうか。
 築地方面へ向かう電車が来るまで少し待たされた。
 滑り込んできた電車は程よく空いていて、見つけた空席に腰を下ろす。
 途中で乗換えをして築地駅に着く頃には家を出てから一時間強経っていた。
 下車して、いつも築地に来る時に立ち寄る和菓子屋で菓子折りを用意して目的地へと向かった。
 魚市場のあるここはいつも活気がある。
 その活気から少し離れた閑静な住宅街の中に、戦火を逃れ歴史を刻み込んだその家屋はあった。
 門の前に辿り着き足を止める。
 手を伸ばして、躊躇う。
 ここまで来て今更何をと苦笑した。
 門扉を開き中へと踏み出す。
 玄関の前までの数歩がいつになく緊張する。
 扉に掛けた手も少し緊張していた。
 拭い切れない躊躇い。
「――いつまで、そこでそうしているんだい?」
 見透かしたような声が玄関越しに聞こえてくる。
「そこにいても何も始まりませんよ。とにかく、中に入りなさい」
「失礼します」
 意を決して玄関の扉を開け中に入った。
 履物を脱いで揃え、先を歩く人の後に続く。
 いつもの部屋に案内された。
 そしていつもの場所にその人が腰を下ろしたのを見届けて、自分は廊下に正座する。
「何をしに来たんです?」
 覚悟はしていた。
 けれど――その言葉は物腰が柔らかい分一際冷たく感じられた。
「御報告に参りました」
 そう、宴の懺悔をするために来たのだ。
 古書肆は手を突いて深く頭を下げる。
「忠告はしたはずですよ」 
「はい」
 あの男には関わるなと云われ、伊豆に行くことを告げた時には破門するとまで云われた。その意味を、師の気遣いを正確に理解したのは全てが終わってからだった。
 後悔がないと云ったら嘘になるが、矢張り――自分はあの選択しか出来なかったと今でも思う。
「関わるなと云ったはずです」
 電話でもきつくそう云われた。
 師の云うことはいつも正しいことを、それに従うのが最善の選択であることを中禅寺は知っていた。
 知っていたけれど――従うという選択を今回放棄した。  


「伊豆に行きましたね」


 短く、確認するように師は問いを投げる。
「……はい」
「破門すると云いました」
「覚悟…して参りました」
 引導を渡されるために来た。
 師を裏切った自分に相応しい罰を得るために。 
「顔を上げなさい」
 何故か、その言葉を紡いだ時の空気はひどく優しいように感じた。
 漸く、顔を上げて師と向き合う。
「負わなくてもいいものを、君は負い過ぎているのじゃないかい?」
「……そう、かもしれません」
 忠告に従っていたら、思い出さなくても済んだ事実――記憶が、確かにあった。
「思っていたより元気そうで安心しましたよ」
 矢張り、知っていたのだろうか。この人は。
「今後は慎みなさい」
「心掛けます」
「頑なだね、相変わらず」
「申し訳ありません」
「正直で良いよ」
 師は笑ってそう応えた。
「ただ矢張り今回のことは褒められるような選択ではないよ。でも君ならそうするだろうということも容易に想像出来た」
「…………」
「良い友人を持ちましたね、君は」
 優しい口調でそう云うと、師はゆっくりと立ち上がった。
「それが君のもう一つの武器になる。あの男にはないものだからね。――大切にしなさい」
 背を向けて、肩越しに振り返って諭すように口にする。
 これでは。
「先生」
「何だい?」
 破門されることを覚悟して来たのだ、自分は。
 なのにこれでは。
「あぁ、いい加減中に入りなさい。いつまで廊下にいるつもりですか?」
「そうではなくて」
「何です? 破門、されたいんですか?」
「そんなことは……」
 あるはずがない。
 覚悟はしていたけれど。
「今回だけですよ。君が負ったものと得て来たものに免じて不問にしましょう」
 私も貴重な弟子を失うのは本意ではないからね。
「ありかどうこざいます」
 深く、改めて頭を下げた。
「ではお茶の支度をしましょうか。面白い本が丁度手に入ったところでね。君の見解が聞きたい」
 立ち上がり、部屋から出て行く師と入れ替わりに部屋の中に入る。
 いつもの距離で腰を下ろし、師が戻ってくるのを待った。
「やっと…これで終わったようだ」
 肩越しに振り返った庭には初夏の気配。
 長い――長い宴が漸く終わったのだとやっと思うことが出来た。

 
――THE END――


★アトガキと言う名の詫状★

 と、いうことで私的榎京設定による『塗仏の宴 宴の始末』のその後話の番外編です。本編を書かないうちに番外編を書いてしまいました…というオチ。本編はそのうち書きます。

 ――さて、このお話は先日真壁が主催した絵茶にて「『塗仏の宴 宴の始末』の後京極は明石先生に破門に遭ったのか」という話題が生じ、居合わせた二人(真壁とラボさん)が同じネタで別の創作をするというちょっとややこしい――誤解を生みかねないものを作り出してしまったという経緯がございます。幸いラボさんからは閲覧者様に誤解を与えないよう配慮していただければ小説のupについては構わないとの御了承をいただけたのでupさせていただいております。詳しくはPC版に掲載しておりますので、よろしければそちらも御一読下さいませ。



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