漸く落ち着いてきた寝顔を見下ろして、彼は寝台の端に腰掛けた。
「愚か者め」
 自分で忠告していたじゃないか。
 言の葉は呪。
 負の言葉は負の生き筋にその人間を導き負の結末を引き寄せる。無意識でも、そういう方向へと縛る。
 永の別れを一度覚悟したあの日、そう云ってこの男は自分の言葉を封じたのだ。
「自分が救ったものの大きさに目を瞑ろうとするのはお前の欠点だよ、京極」
 優しい表情。
 細く開けた窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らす。
 差し込んだ月明りはしかし、すぐに雲に飲み込まれて部屋はまた元の闇に戻った。
「このまま、声を失うなんて僕は許さないからな」
 だから、早く治してもう一度僕のことをちゃんと名前で呼びなさい。
 耳元に優しく告げて、彼は部屋を後にした。
 ドアの軋む音が、静寂に飲み込まれて――消えた。

【戯言の結末 ―前編―】

 見計らったようなタイミングで、来客を告げるドアベルが上品な音を立てた。
「珍しいな、出不精な馬鹿本屋じゃないか」
 実際、見計らって来たのだろうことは容易に察しがついた。
「神田なら用は幾らでもありますよ」
 上着を脱いで無造作にソファの背もたれに掛ける。連絡もなく顔を見せた古書肆は探偵の方にゆっくりと歩み寄って来た。 
「仕事で来たってカオじゃないな」
「じゃあ、どんな顔に見えるんですか?」
 デスクを挟んで向かい合う。
 挑発するような科白もらしくない。
 探偵は、自らの肩書きを主張する仰々しい三角錐の乗ったデスクを回り込んで古書肆の側に歩み寄った。
 視線が、どちらからともなく絡む。
 唇が――ゆっくりと出会い、離れる。
 不安定だな、今日は。
 ひどく、そう――ひどく、らしくない。
「何があった?」
 首に腕を絡め、体温を分け与えるように抱き締め耳元に甘い声で問う。
 古書肆は沈黙を通す。時間が滞ることなく流れていることを主張する壁掛け時計の秒針が煩瑣い。
 躊躇いがちに、背中に腕が回される。
 縋るような危うさを、探偵はそこに感じ取った。
「云いたいことがあるならちゃんと云う。普段は余計なことまで何でも喋るじゃないか。それが何だってそうやっていつも自分のことになると途端に黙るんだ?」
「…………」
「云わないつもりか?」
「今は、あまり…喋りたくない」
 苦苦しそうに口にする。
「諒解ったよ」
 手を引くようにして私室へと連れて行った。
 念のため、ドアに鍵を掛ける。それを背にして口付けを交わす。
 何処か必死そうな表情が欲情を刺激して、背徳さは今日も捩じ伏せられた。
 寝台で、睦言も囁かなければ互いの名も呼びはしなかった。
 抑えられた嬌声。
 卑猥な水音。
 荒い息遣い。 
 寝台の軋みに衣擦れの音。
 果てた果てに気怠い体を寄せ合って、少し汗ばんだ前髪をそっと榎木津は指先で払ってやる。
 露になった額にそっと唇を寄せた。
 痛々しいほどで、何だか見ている自分まで辛くなってくる。
 そんな想いに揺れていた矢先。
「どうした?」
 手を伸ばして、古書肆は探偵の左目にそっと触れた。
「今…どのくらい見えているんだい? 目は」
 先の戦争で照明弾を浴び、探偵の左目は視力のほとんどを失っている。
「左? 明るいとか暗いとかは判るよ」
 突然の問いに、しかし探偵は快活に答えた。
 彼にとって左目のことは些事らしい。
「色は?」
「どうだろうな。赤く光ってるとかそういうのは判るんじゃないか? 試したことなんかないから知らないよ」
 そのまま、できるだけ軽く答えてやり口付ける。
 今日は、やけにおとなしい。そのことにも違和感が纏わりつく。
 矢張り何処か様子が変だ。榎木津は、温もりを分け与えるように中禅寺の細い体を抱き寄せながら確信する。
「――また、何か…あったのか?」
 事件――特に殺人が絡むような陰惨なもの――の後、しばしば不安定に陥ることがあるらしいことは伊豆の時に気付いたけれど。
 また、そうなのだろうか。
 記憶には、それを想起させるような断片が見えてはこない。
「何もないよ。あんたの勘繰り過ぎだ」
 こんな稚拙な嘘を吐くなんてらしくない。
「見えなくなった時…どんな気分でした? あんたは」
 その矢先の問い。
 思わず、耳を疑って言い返す。
「本当に大丈夫か? お前」
「何だい、急に」
「おかしいだろ、だって」
「ふと気になっただけですよ」
「嘘を吐くな」
「意味のない嘘は吐かないよ、僕は」
 まただ。
 何かに過敏になっているような反応。
 深く、諦めたように一つ溜息を吐いて榎木津は古書肆の問いに答えた。
「……目が眩んでしばらく何も見えなかったからな。お前の顔ももう見れないかもしれないなって、そう思ったら辛かったよ」
「…………」
「でも、余計なものが見えなくなるならそれも悪くないと…思ったがこっちはアテが外れたな。むしろ前より善く見えるようになってしまった」
 苦笑交じりに語ってやる。寝物語にはあまり相応しくない話だ。
「僕はね、榎さん」
 仰向けに寝返りを打ち、目を隠すように手の甲を当てた。
「時折――声が、出なくなればいいのにと夢想するんだ」
「不便だぞ、それ」
「そうだな」
 古書肆は小さく苦笑を見せる。
「でも――そうなったら」
 
 何も騙らないで済む。
 
「何も…騙らなくて済むんだ、僕は」
 静寂が忍び込んできた。
 壁掛け時計の秒針が、次の言葉を発するまでの時間を声高に数え上げて急かす。
「騙りたくないなら黙ってればいいだけだろ」
「だがそうもいかないよ。――仕事、だからね」
「なら断ればいい」
「名案だな、確かに」
 はぐらかすように無理をして笑う。
「僕を呼ぶことすら出来なくなるってことだぞ」
「あぁ…確かにそれは困るな」
 それでも。
 戯言のように口にした言葉を、時折――無性に願わずにいられなくなる。
 言の葉の恐ろしさを思い知る。
 人の生き筋を縛り、望むと望まざるとに関わらず、直接間接を問わず――人の命が失われてしまうような場に居合わせてしまうと、特に。
「忘れるな」
 思考を引き戻すように、探偵は古書肆が顔を隠していた手を強引に外し、身を乗り出して顔を覗き込んだ。
 漆黒の目。
 少し、迷いに揺れているか。
「狡いのはお前だけじゃない。人の生き死にをどうこうできるほどお前は偉くなんかないだろ。自惚れるな」
「……ありがとう」
 嫌な予感がした。
 そんなもの、普段は気にも留めようとはしないけれどそれはひどく纏わりついた。
 戯言と、受け流すには少し重い。
 誤魔化すことが出来るかと、口付けをしてみたけれど何一つ埋めることなど出来なかった。
 珍しく、恐怖に似たものを自覚する。
 そしてこの戯言の結末が、明らかになるまでそう時間はかからなかった。


to be continued......


★アトガキと云う名の詫状★

 別館立ち上げ1周年を期にネタを募集したところ、『泣ける榎京』というお題を頂戴したのでチャレンジしてみました。
 泣ける榎京。
 前編は、まぁ前振りなので後半で泣かせたいと思います。

 泣く話は書くのに精神力使うので…頑張ります。 
 リクを下さった華ぃうさんに捧ぐ。後編はしばらくお待ち下さいませ。


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