煙るように細かな雨で街の景色が霞む。 この薄暗い空模様の所為で、余計なものは今日もいつもより少し鮮明さを増していた。 鬱陶しいのはそればかりではなくて、肌に纏わりつくこの湿気もだ。 苦苦しく溜息を吐くと、探偵は思い切り不機嫌に自室の戸を開ける。 本日漸く顔を見せたにも関わらず、常人離れして整ったその顔はひどく忌忌しそうだった。 【紫陽花の庭 ―前編―】 雨音を一瞬だけ黙らせたような錯覚さえ覚える音だった。 恐る恐る振り返ると、ドアを開け放った状態のまま硬直したように不機嫌な探偵は動こうとしない。 「――…先生?」 それでも和寅が声を掛ける。 しかし。 「煩瑣い」 低く、抑えたように短く告げて自分のデスクに足を運んだ。 黙り込んだままひどく面倒臭そうに腰を下ろすと事務所の風景をぞんざいに一瞥して――ふと、益田の頭の上辺りで視線を止める。 「……紫陽花」 独り言のようにこぼした言葉に探偵助手は、少し大袈裟に狼狽して座り直した。 「は、はぁ…確かに僕ァここに来る途中で紫陽花を見ましたけど――」 「そんなことは尋いてないよ」 「今頃は丁度、お屋敷の庭が綺麗でしょうなぁ。そういや先生、今年はまだ梅雨になってからお帰りになってないんじゃないですか?」 「ふん、用なんかないからいいのだ」 機嫌が悪いと云うよりは寧ろ荒れているとでも云った方が適切かもしれない。 投げ遣りな調子の会話が途切れると、煙草に火を点け立ち上がり、入り口に立て掛けたままの傘を手にして何も云わず事務所を出て行ってしまった。 「どうしちゃったんですかね、あのオジサンは」 「この時期にはよくあるんだよ。機嫌が良い日の方が珍しい」 探偵が出て行ったばかりのドアを振り返る。ドアベルがまだ少し揺れていた。 石段を降りていく跫ももう聞こえない。 当然、探偵助手たちの声は探偵に届かない。 探偵はただ不機嫌な顔で、煙るように細かな雨の降る街を傘を片手に駅に向かっていた。頭痛が起きそうなほど湿った空気に不快感は煽られるばかり。 切符を買い求めて改札を抜け、傘の雨粒を払いながらホームに向かう。 電車はつい先程出てしまったばかりのようで来るまで少し待たされた。 乗り込んだ電車の車窓から、ずっと外ばかり見つめてると紫陽花の庭があちこちに見える。しかし不思議と見ていて飽きなかった。 中野駅で下車して駅を出ると雨足はこちらの方が幾分強かった。眩暈坂はただでさえ歩き難いのに雨で滑りやすい足元が更に厄介だ。 代わり映えのしない風景。 雨を吸い込んだ土の匂い。 風に漂う草の匂い。 たどるように歩き続けると、漸く目的地が見えてきた。 古書肆の、あの独特の筆跡の看板。 店の前に立ってみたら案の定骨休めの札が下がっていた。中に人の気配もないのでそのまま母屋の方に回り込む。 玄関を通り過ぎて縁側に出た。 ここにも紫陽花が咲いている。 青いのと、紫かがったのと。 何故か無性に――これが見たかったような気がしてきた。 「榎木津さん……?」 涼やかな声が聞こえて振り返る。 「やぁ、千鶴さんじゃないかッ」 いつも、彼女は自分を見つけた時一瞬だけ複雑な顔をして――笑顔で隠す。 「紫陽花が綺麗だな」 「丁度見頃の時期ですわね。よろしければ帰りにお持ち帰りになって下さいな。紫陽花は日持ちしませんけど……」 「ならここで咲かせて上げた方がいい。すぐに枯れてしまうと知って切ってもらうのはカワイソウだ。――それより、千鶴さんはこんな雨の中出掛けるのかい?」 「急ぎませんからどうぞ上がって下さい。お茶と…何か拭くものお持ちしますから」 「すまないね。でもおかげで今日は美味い茶が飲めそうだ」 冗談めかして口にしたら控えめに小さく笑って応えた。 傘を畳んで縁側に立てかけて、軒先でとりあえず雨を凌ぐ。 タオルを借りて少し濡れてしまった髪と腕を拭いて座敷に上がった。いつも主の姿のある場所は空席だったが榎木津は定位置に腰を下ろして振舞われたお茶を啜る。 「京極は?」 「今は神社におりますわ。雨続きですし拝殿も空気を入れ替えないと黴臭くなってしまうからなんて出て行きましたけど」 「出不精が似合わないことをするからこっちはこんなに雨が降っているんだな」 「神田はそんなに強くありませんでしたの?」 「そう。霧雨くらいだったなぁ」 「じゃあきっとあの人の所為ですわね」 小さく笑う綺麗な人――彼の妻の、こういう屈託のない振る舞いが多分彼の癒しなのだろうと思い遣る。 「もう戻ると思いますけど――」 「僕のことなら気にしなくていいよ。出掛けるなら行ってきたらいい」 「すみません、いつも」 「留守番くらいお安い御用だ。それより坂が滑りやすいから気を付けた方がいいよ」 「そうします」 申し訳なさそうに礼を口にして、彼女は玄関から家を出て行った。 急に静まり返った家の中に、雨音だけがしとしとと響く。 座布団を枕にして横になると、静謐な空気の清しさに家を出てきたときの不快感が洗われるような錯覚を覚えた。 この、手入れの行き届いた庭と。 畳の香りのする日本家屋。 自分の遺伝子に刷り込まれた感覚がきっと、どうしようもなく気分を落ち着かせるのだ。きっと。 だから――よく眠れない日が続くと自分はここに来るのだろう。 でも今日は一つ足りない。 一定のペースで紙を捲る音だとか、耳に柔らかに響くあの少し低い声の薀蓄だとか。 そんなことを考えているうちに、意識が遠のき眠りに落ちた。 閉じかけた瞼の隙間から、紫陽花の庭がぼんやりと見えた。 |
to be continued...... |
★アトガキと言う名の詫状★ 少し間が開いてしまいましたが京極新作はまた季節モノです。しかも少し逃し気味という痛いオチがついています。 紫陽花が綺麗な頃に、紫陽花の咲く庭を眺めながら京極と榎さんの日常を切り取れたらなぁと思い書き綴ってみた次第。 榎さんは榎さんで、千鶴さんは千鶴さんで、お互いにお互いの領分を弁えていて相手にどうこう云うつもりもないし京極を責める気もないんだけど、やっぱり小さな棘のように屈託はあると思うのですよ。 でもできるだけ円満に、榎京(京榎)の関係を維持させてあげたいのはこれも同じです。 後半でちゃんと京極出てきます。薀蓄も垂れます。 |
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