それは「好き」なんて言葉じゃとても割り切れない。 かといって「愛」なんて言葉で割り切れるほど浅くない。 けれどこの、もっと痛くて苦くて切実な――もどかしい何かを割り切れる言葉を互いに知らなくて。 睦言の一つも紡げない。 だから、その代わりにこれを。 【我儘の鎖 ―前編―】 骨休めの札を店先に下げて奥座敷に向かう。 「あら、丁度呼びに行こうと思っていたところでしたのよ」 昼食の用意をすっかり整えた妻が、廊下の跫に気付いて肩越しに振り返って微笑んだ。 「今お茶をお持ちしますから、少しお待ちになって下さいな」 自分の席に腰を下ろすと入れ替わりで妻が台所へと下がる。 読み止しの本を手にして時間を遣り過ごしていると、程なくしてお茶の香りを連れた妻が戻って来た。 「お待たせしました」 「いや、ありがとう」 「それでは、いただきます」 妻も腰を下ろし昼食に手を付けた。 いつものように他愛のないことを話しながら食事をしていた矢先。 左手で口許を覆い、不意に千鶴子が咳き込んだ。 「風邪かい? さっきもしていたようだが」 「さっきって…何時ですの?」 「午前中、僕が店にいる間だよ。洗濯物を干している時じゃないかと思うが」 「まぁ、地獄耳ですのね」 「おい…そんな云い方はないだろう」 「冗談ですよ」 眉根を寄せて抗議をしたが妻にはにこやかな笑顔で返される。 「えぇ、でも…そうですね。何だか喉の調子がおかしくて。朝起きて暫くは平気だったのですけど……」 「熱は測ったのかい?」 「そんな大袈裟なものじゃありませんよ」 「初期症状を甘く見てはいけないよ。食事を済ませたら少し休んで、熱を測った方が良い。微熱でも、体温が高いようなら今日は無理をせず休みなさい」 「諒解りました。そうします」 時折箸を止めて咳き込みつつも食事を終え、空になった食器を片付け洗い物を済ませると千鶴子はお茶を淹れ直して座敷に戻って来た。 「君は少し待ってからにしたまえ」 理由を問う前に、夫はすっと体温計をこちらに寄越す。 「心配し過ぎですよ」 素直に嬉しく思って、何となく庭を眺め遣って脈拍が落ち着いて来たのを感じてから体温を測ってみた。 規則的に書を捲る音だけが、部屋の中に刻まれる。 五分が経過したところで、千鶴子は体温計を取り出した。 「……あらいやだ」 「見せて御覧」 手を差し出す夫に仕方なく渡す。 「三十七度…四分、といったところか」 「寒気もしませんし大丈夫ですわ。動けますもの」 「無理はしない方がいいよ。今これだけあるんだ、多分この後上がってくる。家の事はいいから今日はもう休みなさい」 「ですが……」 「今床を延べてくるから着替えを済ませておくといい」 苦笑して返事をし、隣の床の間に場所を変えて夫が床を延べてくれている傍らで着替えを済ませた。 「少し眠りたまえ。その方が楽になる」 改めて、こんな風に床に入るのは何だか気恥ずかしいようで。 けれど横になると――不思議と、さっきまで大丈夫だとばかり思っていたのに急に体の怠さを覚えてすぐに眠くなってきた。 延べた布団のすぐ脇に、夫が座布団を隣から持ち込んで腰を下ろす。 「お店はよろしいんですの?」 「構わないよ。もともと――午後は閉めてしまうつもりだったからね」 尤も、その午後からの予定は先方に詫びの電話を入れて日を改めてもらうことになるだろうけれど。 「おやすみ」 気を散らさないようただ本を読み耽る。いつの間にか妻は穏やかな寝息を立てていた。 読み止しの本を脇に置いて、中禅寺は重い腰を上げ電話をかけるため床の間を離れる。 ひどく、気の重い電話をかけなければならない。 道程を少し遠くに、電話を手にしてダイヤルを回すその指を少し重く感じる。 繰り返される呼び出し音。 ガチャッ、と不自然にそれが途切れ。 『はい、薔薇十字探偵社』 「――益田君かい? 中禅寺だが」 『あぁ、これはどうも』 「榎木津は起きているかね?」 『さァ…さっきから物音がしてるんで起きてはいるんだと思いますけど……』 「すまないが電話を代わってもらえないだろうか」 『諒解りました。少しお待ち下さい』 電話越しにではあったが探偵助手の空気が僅かに変化したのが判った。 きっと、彼は自分を狡いと責めたい人間の一人なのだろうと苦笑する。 数分待たされて、榎木津はやっと電話口に出た。 『僕はちゃんと起きているし約束を忘れたりしていないぞこの本屋め』 不機嫌な声だった。 寝起きの彼はいつもこんな調子だ。 「あぁ、その約束なんだが……」 『何だ?』 「すまないが、日を改めてもらえないだろうか」 『…………』 「…………」 言葉が途切れたまま――希釈された時が流れる。 『何で』 「千鶴子が…体調を崩してしまってね」 『ふぅん』 嘘を、吐いているわけではないのに嘘を吐いているような背徳さが纏わりついた。 いつも、いつも我慢ばかりを強いてしまうからその埋め合わせになればと受けた誘いだったから余計気が咎めるのかもしれない。 「熱もあるし」 言葉を重ねる度に、言い訳のように聞こえてくる。 自分の言葉だからだろうか。 「すまないが――…」 『待ってるからな』 「榎さん」 『待ってるぞ』 「榎さん!」 呼び止める声を封じるように、電話は一方的に乱暴に切られた。電子音が自分を嘲笑う。 一つ、深い溜息を吐いて。 重い気分を引き摺りながら床の間に戻った。 この思いは自分の罪だ。彼を、自分の我儘の鎖で繋いでしまった。 「起こしてしまったかい?」 襖を開けると半身を起こしていた妻と目が合った。 「貴方…そう云えば、今日お出掛けになるって仰っていませんでした?」 「あぁ、でも先方に日を改めてもらえないかと連絡したよ。だから君は気にせず休んでいて構わない」 「そんな、私は大丈夫ですからお出掛けになって下さいな。先方にも申し訳ないですし」 「大丈夫だよ。君は心配しなくていいから」 「今日は夕方から敦子も来ると云っていましたし、私一人でも大丈夫ですから」 誰と会うのかは彼女には告げていない。 けれど、きっと気付いているのだと思う。 知っていて――いつも、許してくれるのだ。 「じゃあ、もう少し君の様子を見て、心配ないようなら敦子と入れ替わりで出掛けさせてもらうよ」 だからこんな日くらい、せめてもの罪滅ぼしに側にいようと思ったけれど。 結局、彼女の優しさに甘んじてしまいそうになる。 ――待ってるからな。 不機嫌な、それでいて何処か必死に引き止めるような。 普段は自信に満ち溢れた榎木津の、真摯な言葉が脳裏を掠めた。 約束の刻限までの二時間強。 それはひどく重く纏わりついて、そして。 |
to be continued...... |
★アトガキと云う名の詫状★ ベタなネタだとは思いますが書きたかったんです。 榎さんも、譲りたくない時があって。 京極も、約束を守りたいけれど――千鶴さんを優先してあげたい時があって。 お互いに我儘の鎖で縛りあって、傷付け合うような真似をして、それでも離れることはできなくて。 許し合うことで繋がっている。 その、許すタイミングが難しいのでしょうけれど。 後半で兄上初登場。この兄弟会話を書きたくてこの話が浮かんだ次第。 |
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