一定の拍子で刻まれていた、本の頁を捲る音がぴたりと止んだ。
 十月に入り、日が傾いて西空が朱色に染まり始める頃にはもう空気に冷たささえ感じるようになっている。
 半分だけ開け放っていた障子を閉めに主が腰を上げかけると、丁度妻がお茶を淹れ直して来たところだった。
「千鶴子、すまないが障子を閉めてくれないか?」
「もうこの時間になると風も冷たいですものね」
 障子を閉め、夫の前に湯気の立つ湯呑みを置くと自分もいつもの場所に腰を下ろす。
「先程…雪絵さんからお電話を頂戴したのですけど」
「出掛けるのかい?」
「違いますわ。十三夜のお話です」
「あぁ…もうすぐだったな」
「十五夜を家でやりましたでしょう? ですから十三屋はあちらで一緒にいかがですかってお誘いをいただいたのですけれど――いかがかしら?」
「僕は構わないよ。今回は月見料理などは特に必要ないから神社に供える栗や大豆なんかを用意しておいてくれれば問題ないからね」
「じゃあ雪絵さんに是非お願いしますってお返事しておきますね」
 お茶を乗せて来た盆を手に、部屋を後にする妻の後姿を見届ける。
 初めから解っていたことだ。多分、彼も解っていて――それでもそう口にしたのだろうと、思う。自嘲の笑みを口許に浮かべながら、けれどそれを告げなければならない憂鬱を思い遣った。

【妥協の月 ―前編―】

 秋晴れの空が広がっている。駅の改札を出て仰いだ空から注がれる陽光に思わず目を細め、いつもの道をいつものようにいつもの場所を目指してたどる。
 古書店の店先をざっと眺め、一本裏手に逸れると一際モダンな石造りのビルが見えた。
 一つ、深く溜め息を吐いて意を決したように階段室のドアノブに手を掛ける。
 ひんやりと心地良い空気に満たされた狭い空間に続く階を上り詰めて三階に着いた。擦り硝子に綴られた、薔薇十字探偵社の金文字。
 押し開くと澄んだ音が事務所の中に響き渡る。
 今日は、珍しく静かだった。
 いつもはドアベルの音を聞きつけてすぐに姿を見せる秘書兼給仕役の和寅も姿を見せない。買い物にでも出掛けたのだろうか。
「起きてはいる…ということだな」
 あれで意外と神経質な和寅が、榎木津が居るとは云っても寝ているのなら鍵も掛けずに出掛けたりはしないだろう。
 古書肆は真っ直ぐ探偵の私室に向かい、閉ざされたまま出て来る気配のないその扉を二度叩いた。
「榎さん、起きているんだろう? ――僕だ。入るよ」
 断って中に入る。
 寝台の上で半身を起こしたまま俯いて、カーテンの隙間から差し込んだ午後の陽に照らされたまま微動だにしない探偵の姿。こちらを、振り向きもしない。
「榎さん……?」
 顔に掛かった髪の隙間から、左目を覆う手が見えた。
 息が、詰まる。真逆――…
「大丈夫だ。お前が思ってるような状態じゃない」
 傍に、歩み寄る跫に返って来る声。
「起き抜けに思い切り隙間から入った日差しを見てしまって目が眩んだのだ」
 肩膝を寝台の端に突いて、少し強引に彼の手を外し顔を覗き込んだ。
「どうした? ちゃんと見えているぞ?」
「なら心臓に悪いからそんな状態のままで硬直しないでくれ」
 肩口に顔を埋めてこぼす。
 肌から伝わる体温に漸く安堵した。
「らしくないなぁ、お前。どうしたんだ一体」
 告げなければ。
 それを、云うために今日此処に来たのだから。
「謝罪と…その償いの約束をするために来た」
「解ってたよ」
「…………」
「解ってる。だから、謝らなくていい」
 これまで幾度もあったことだ。そしてこれから何度も繰り返されることだ。それを受け入れられないなら、この関係を維持することなど出来るはずがない。
 手放せなかったのは自分も同じ。
 苦しめているのもお互い様だ。
「だから、その償いの約束とかいう方だけ聞かせろ」
 ゆっくりと顔を上げ、寝起きで少し浮腫んだような白い面を見下ろした。
 謝罪の言葉の代わりに口付けを仕掛ける。
 何度も、角度を変えては触れるだけの接吻を繰り返した。そしてそっと額を重ねて鳶色の目を覗き込む。
「十月三日――」
 十三夜よりも一週間程早いけれど。
「十月三日、夕方からの時間を僕にくれませんか?」
「空けておけって?」
「えぇ」
「償いの約束がそれか?」
「そうです」
「わざわざそのために来たのか? 出不精なお前が?」
「電話で…済ませていい類のものじゃないと思ったからだよ」
 正直に告げると探偵は不敵に笑い、 
「ならソレで十分だ」
 と、身を引いて離れた額を指先で軽く弾いた。
「お前がそうまでして僕に乞うなら仕方がない。――空けておいてやる。十八時には迎えに来いよ」
 急にいつもの調子で告げる彼に淡い笑みを向けて応える。
「ならあんたもそれまでには支度を済ませておいてくれたまえ。待たされるのは御免だよ」
 視線が絡む。
 それに惹かれるようにまた、口付けを交わす。
 今度は、さっきよりも深く濃密に。
 離れた唇を繋ぐ細い銀糸を榎木津が指先で拭う。名残を惜しむようにその指で自分の口許を拭った。
「お腹が空いてきたから着替えて食事だッ! お茶くらいお前も付き合えよ」
 上機嫌で告げて寝台から下り目に付いたズボンと襯衣を身に付け部屋を出る。
 来客用のソファで待たされて、程なくして和寅が作り置いていったらしい朝食と、二人分のお茶を乗せた盆を抱えて榎木津は戻って来た。
 他愛のないことを思いつくまま口にする榎木津の話に耳を傾けながらお茶を飲み、買い物から戻って来た和寅と入れ違いで探偵社を後にする。
 見上げた空には月と太陽。東の空に欠けた細い月が昇っている。
 数日後――償いの約束の夜には妥協の月が昇っているはずだ。
「晴れてくれよ…月が臨めないんじゃ意味がないんだ」
 独りごちて駅に向かって歩き出す。空はもううっすらと暗くなっていた。
 急速に朱色に侵蝕された、西空を背負って電車は中野方面へと向かって行く。
 夜から逃げるように太陽が、遠い山間に沈んでいくのが車窓から見えた。
  
to be continued......


★アトガキと言う名の詫状★

 サイトにupするのは久し振りですね…最近寄稿するものばかり執筆していたので更新が停滞していました(--;)
 久々にupした小説は京榎です。思いついた時に「あぁ、これは(多分)京榎だ」って思ったので京榎に分類してありますが、真壁がそう認識して書いたってだけなのでそんなに構えず読んでいただけたら嬉しく思います。

 十五夜の月だけ見て十三夜の月を見ないのは片月見と言われ忌避される風習があるそうですが、それでも京極は千鶴さんがいるので榎さんとの時間を優先させることは出来ないのだろうなぁと。それでも二人で過ごす時間は作りたくて苦肉の策(約束)を取り付けに動いた次第。
 京極は榎さんをこういう面で何度も傷付けるような結論しか出せなくて、それがジレンマだけれどその度に償いのように誠意を示す術を模索して煮え切らないまま動き出して榎さんを求めていたらいいと思います。
 京極が自分から動き出していると、真壁は何となく(自分で書くものについては)京榎だっていう認識になるらしい。

 後編に続く。


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