凄惨な、としか云い様のない状態だった。
 この先の展開を見通したらしい探偵が突然走り出した後に探偵助手が続く。
「京極、無事か?!」
 勢い良く開いた観音開きの扉。
 目の前に現れたのは――
「ひッ」
 遅れて入ってきた探偵助手が思わず悲鳴を上げる。
 床に広がる赤黒い血溜まり。その中に、転がる日本刀。
「ちゅ…中禅寺さん? 無事なんですか?」
 黒衣の陰陽師は、血の飛沫を浴びたまま硬直したように動かない。
「馬鹿者、全部返り血だッ。見て判らないのか愚か者め!」
「わ…判りませんよそんなの。血塗れだったら普通慌てますって」
 それだけ返すのがやっとだった。
 自ら命を絶ったのであろうこの事件の核にいた人は、その、凄惨を極めたような部屋に咲いた真紅の中でそれでも何処か穏やかな顔をして眠っている。
「すまない」
 自分が汚れることも厭わずに、探偵は迷いなく陰陽師に歩み寄って、頭を抱えるように片腕を回し肩口に頭を埋めて小さく詫びた。
 その言葉の意味を、重さを、益田はまだ判らずにいた。

【黎明の切欠 ―前編―】

 遅れてやってきた警察関係者でさえ、一瞬――その光景に息を呑んだ。
「おい馬鹿、てめぇ、一体どういうことだこれは」
 駆けつけた木場が声を荒げる。
「礼ニ郎、説明しろ説明を」
 聞こえているのかいないのか、陰陽師から離れた探偵は、彼を見下ろしたまま沈黙する。
「聞いてるのか?!」
 ただ、凝乎と陰陽師を見詰めて動かない。
 そこだけ、時間が凍っているように。
「……許せよ」
 囁くように、辛そうな声で告げて探偵は陰陽師の首に手を伸ばして、触れた。
 途端に、糸が切れたように漆黒が崩れるのを、支える。
「中禅寺さん?!」
 益田の位置からでは丁度探偵に隠れて陰陽師が失神でも起こしたようにしか見えなかった。
「今度は何だ」
 探偵助手の声に反応して木場が榎木津の方に視線を投げる。
「騒ぐなよ、馬鹿修。僕が気を失わせただけだ」
「どうなってんだ? これは」
「見た通りだろ。どう考えたって」
「……その慎重な本屋が追い詰めたってのか?」
 崩れた漆黒を、壊れ物でも扱うようにそっと横抱きに抱え上げた。
 噎せ返りそうな血の匂い。
 多分、この結末を恐れて彼は――ずっと、自分がこの事件に立ち入ることを拒んでいたのだろう。
「馬鹿者。四角いのはお前だけで十分だ」
「何だとコラ」
「お前じゃないんだ。――こいつが、そんな失態をするはずないだろ」
「じゃあ一体何なんだよこのザマは」
「選んだだけだろ」その人が。
「何を」
 靴音が天井に吸い込まれる。それで、探偵が歩き出したことを益田は漸く理解した。
「え…榎木津さん?」
「引き上げる。もう、ここに用はない」
 静止する木場の声を聞き流して、探偵は自らの宿泊用に確保しておいた近くの宿へと古書肆を抱えたまま向かった。
 空は泣き出しそうに重たそうな雲に阻まれてひどく息苦しい。まだ居座っている残暑が纏わり付くのも不快だ。
 迷って、結局探偵に少し遅れて益田は後を追うことにした。何となく、そうした方がいいような気がしたのだ。
 血に塗れた宿泊客の連れに、宿の人間も流石に一瞬顔色を変えたがすぐさま切り替えて対応する。接客業の人間の、こういう切り替えの速さには尊敬すら覚える。
 事情が飲み込めないまま益田は仲居に大量の新聞紙を持たされた。榎木津の部下か何かだと判断されたらしい。
 榎木津の後に続いて階段を上る。
 入っていった部屋に、続く。
「遅い!!」
「すみません」
「さっさとそれを畳に敷く! 敷いたら布団を敷いてお前はとっとと部屋から出てけ」
「出てくんですか?」
「そうだ邪魔だから帰ったっていいくらいだ。でもその前に下で電話でも借りて千鶴さんに電話を入れてあげなさい」
 多分、自分がかけるよりはいい。
「な、何てかければ……」
「事件の事後処理が長引きそうだとか――そういうの得意だろお前」
 それ以上云うことはないとでも云うように、冷めた声に会話を打ち切られる。
 益田は手早く新聞紙を畳に何枚か重ねて敷くと布団の用意をし、早々に部屋を出て階段を下りていった。
 その跫を聞き届けて、探偵は抱えていた男をその新聞紙の上に横たえ部屋の襖を閉める。
「少し、我慢しろよ」
 部屋を出る。
 階段を下りて近くにいた仲居に、温めの湯を張った盥二つとタオルを数本所望して部屋に戻った。
 血の匂いが立ち込めているような気がして、窓を少し開ける。
 静かだ。
 廊下から跫。
 榎木津は窓から離れると、仲居からタオルと盥を受け取って中禅寺の傍に戻った。
 羽織の結び目を解き、帯を解いてそっと抱え起こし憑物落しの装束を脱がせてやる。
「そう云えば…前も、こんなことがあったな」
 タオルにお湯を含ませて、出来るだけ優しく肌を拭った。乾いた血の付いた箇所は特に念入りに拭き取ってやる。
 乾いてきたタオルはもう一つの盥に浸し、また別のタオルを綺麗な湯に浸して――その作業を繰り返す。
 目に付く血痕全てを拭い終え、肌も一通り拭い清め、榎木津は気を失ったままの陰陽師を布団に横たえた。そして、備え付けの浴衣に着替えさせる。あの惨劇の気配はとりあえずここにはない。
 気休めにしかならないだろうけれど、部屋に残っているような気がする血の匂いを攪拌して薄めようとでもするように扇風機を点けた。ゆっくりと、部屋の空気が動く。低く響くモーター音。
 新聞紙を片付け盥と共に仲居に引き取ってもらう。
 吹き荒れる風の音。雨が近いらしい。
 時間は薄められて普段の倍近くゆっくりと流れていく。そのくせ酷く重く圧し掛かる。
 耐え切れなくなって、榎木津は一度部屋を出た。
 閉じた襖に背を預け天井を仰ぐ。
 目を閉じて、視えたものを反芻した。
 二階へと向かってくる跫。この、荒い音はきっと――。
「やっと出て来やがったな」
「大きいのは図体だけでいいぞ、お前。煩瑣いじゃないか」
「京極は?」
「気を失ったままだ」
「ったく…勝手なことばかりしやがって」
「それはどっちに云ってるんだ?」
「お前等二人纏めてに決まってるだろうが」
 言い捨てるように口にしてまた階を下りる。
 何となく、榎木津はその後に続いた。
 事件の関係者が集められたような状態の広間にたどりつく。そこで、ぼんやりと窓の外を眺め遣りながら煙草を燻らせて時間を潰した。
「お前ぇ達が関わる事件は全くややこしくてしょうがねぇ」
 ぼやいた木場の声につい苦笑した。
 軒を打つ音が微かに耳につく。
「降ってきたな」
 途端に、雨音が勢いを増した。
 その音で、中禅寺は目を覚ました。
 暗い。漆黒の闇だ。
 ゆっくりと体を起こす。鈍い頭痛。状況が判らない。
 何となく手のひらに目を落としてみる。けれど、そこには何も見えない。
 ここは何処なのだろう。
 雨音が聞こえてくる。それに混じる、モーターの回転音。ファンが緩やかに部屋の空気を混ぜている。
 登戸の研究所の一室に、似ていた。
 そんなはずはない。
 戦争は終わった。あの事件も終わったのだ。
 近づいてくる跫が記憶を呼び覚ます。
 部屋の前で止まった。
 扉の開く音。
「あぁ…起きたのか、お前」
 体が強張る。
 自分の傍へと歩み寄って来る気配。
「大丈夫か?」
 何も見えない。
 けれど――その声は。
「榎…さん……?」
「ん?」
 声の方を見やっても、この深い闇の中では何も見えない。
「明かりを……」
「何?」
「明かりを、点けてくれませんか? こう暗くっちゃ何も見えない」
「京極?」
「あんただって…嫌いなんだろうから」
「お前」
「何です?」
「何を云っているんだ?」
 傍らに膝を突いて古書肆を見下ろす。
 声に、反応して視線がこちらに向くけれど自分のそれと上手く合わない。
「真逆…見えて、ないのか……?」
「え?」
 言葉の意味を考える。
「ここにいろ」
 階下へと駆けて行く跫。
 また一人、闇の中に残される。
 あの場所に似ていた。忌まわしい記憶ばかり脳裏を過ぎる。
 片膝を立てて抱き寄せた。
 膝頭に頬を乗せ、縋るように腕に力を込めて自分を支える。
 押し寄せてくる記憶に潰されそうだった。
 せめて、この――記憶を攪拌するように不快なモーター音を止めたくて。
 ゆっくりと立ち上がる。
 そして――音だけを頼りに闇の中を、歩いた。


to be continued......


★アトガキと言う名の詫状★

 結局またしても前後編でした。
 別館立ち上げ1周年記念で募集しましたリクその2は、松永さんから頂戴しました『憑物落としで精神的ショックを受け、目が見えなくなった中禅寺を榎さんが癒す』というお題です。
 とってもツボなリクにちょっとはしゃいでしまいました(笑)

 この前編ではとりあえず「目が見えなくなった」まで。
 メインの「中禅寺を榎さんが癒す」は後編でどうぞ。


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