「――…夢を、見たんです」
 自分の寝顔を覗き込んでいた男に、彼は、少し枯れた声で告げる。
 すると男はひどく優しい声で続きを促した。
「どんな?」
「夢でくらい、嘘でも…夢なんだから嘘くらい吐いてくれてもいいと思いませんか?」
 まだ寝惚けているのだろう。支離滅裂に紡がれる言葉はしかし、何処か切実で。
 解る、ような気がした。
「嘘も…吐いてくれないんです」あの人は。
 呟きを寝息が飲み込んで。
 切なげな寝顔が理性を試す。
「相手が悪いのはお互い様ですな」
 苦笑して、目を閉じ天井を仰ぐ。
 深く吐き出した息は重く沈み。
 ごそごそと、男も布団の中にそっと潜り込む。
 心許無げに体を丸くして眠る彼をそっと抱き寄せて。
 唇を、そっと触れ合わせて。

【偽りの言葉 ―前編―】

 離れていった唇を、益田はただ朦朧と注視ていた。
 背徳の味を思い知らされた、あの優しい牽制を思い出した。
 けれど、今の口付けの方がもっと――苦しいように思う。それは、自覚の有無に拠るのだろうか。それとも探偵自身の内面に拠るのだろうか。
 自分には判断出来ない。する心算も、ない。したところでそんなことは無意味だ。
 夜に飲み込まれ、帰宅のために照明を控えた部屋はほの暗く、塵芥の始末のため裏口から非常階段の踊り場に出て行った和寅が戻って来る気配はまだない。
「いいんですか? 僕なんかにこんな真似し――」
「煩瑣い」
 いいから黙ってろ。
 塞がれた唇。
 侵食してくる他人の体温。
 焦がれて止まない相手はしかし、自分を通して自分の想い人を見ているだけだ。
 だから、これは自分に与えられた想いじゃない。
 行為でも、ない。
「榎木津、さん」
 離れようとする。
 あんまりだと思うのに、きつく抱き締められればその甘美な温もりに目が眩んでしまう。
 注がれる想いはこんなにも重く。
 抱擁は痛いくらい、なのに。
「……似合いませんよ、こんな」
 言葉が滑る。
「らしくないです」
 僕なんかに。
 この人があの古書肆を裏切るような真似をするなんて考えられない。
 如何してこんなことになってしまったのか。
 それは多分、夕方――雑用を命じられ引っ張り出された街で、細君を伴って夕食に出掛ける矢先だった中禅寺と鉢合わせてしまったからだろうけれど。
 自由気儘に振舞う探偵が、唯一、自分の想いを曲げて隠して接する相手。
 彼の想い人の、妻。
 世界の境界に立つ拝み屋を、共に――けれどそれぞれ別の立場で支える人。
 探偵には、探偵にしか解らない痛みがあって。
 彼もまた、自分と同じように己の想いを持て余すことがあることを知る。
 けれど、望みのない期待を持たせるような素振りを見せるなんて矢張りらしくない。少なくとも益田はそう思う。
 探偵はいつも勝手で無茶苦茶だがその実ひどく優しいのだ。
「――…聞いてますか? 榎木津さん、僕ァ榎木津さんのために云ってるんです」
 嘘だ。
 人の為――なんて偽りでしかない。
 いつだったか誰かに聞いた。人の夢が儚いように、人の為になんて口にされたことは大抵偽りだと。
「榎木津さん」
 そんな偽りの言葉では彼に届くはずもない。
 ほんとうのことしかない、彼には。
「慰めろ」
 だから、ほら、届かない。
「無茶苦茶云わんで下さい」
「優しい言葉くらい云え」
「僕は中禅寺さんじゃありません」
 彼方が欲しい言葉は僕の中にはない。
「そんなことは諒解ってるよ」
 けれど好きだなんて口が裂けても云えない。
 自分の中にあるものは、彼に繋がるはずもないものだから。
「だから、代わりにはなれません」
「僕を見縊るな」
 なら。
「僕のままで、いいなら」
 好きにして下さい。
「最初からそう云えばいいのだ」
 馬鹿だ。
 結局、彼にあの人を裏切らせるような真似を自分から誘う、なんて。
 ただ出来ることをしたかっただけだと云って信じてもらえるものだろうか?
 目を閉じる。
 ただ探偵の想いを受け止める。
「え、ちょっと……」
 強引に手を引かれて連れ込まれた探偵の私室。
 バタン、と大きな音を立てて閉じられたドア。
「んっ……」
 その扉に押し付けられるようにして、強引に口付けられる。
 ここは自分のとっての聖域。
 そしてまた少し乱暴に彼の寝台に組み敷かれて。
 触れた温もりが刻んだのは想いじゃなくて痛みだった。
 いや、彼の――探偵の――想いと痛み、だったのかもしれない。
 それとも、いつか自分が『彼』に預けた想いであり痛みだったのかもしれなかった。
 声を殺して想いを殺して受け止めて。
 錯覚してしまいそうになる自分を叱咤して。
 繋がった身体に走る痛みは紛れもなく彼が齎したもので。
 そう思うとそれでも愛しくて。
 不毛な想いは探偵の手で手折られるどころか募っていって。
 自分の愚かさに嘲笑したらもうその先は余計なことに思考を費やす余裕もなくなって、ただ快楽に溺れ喘いで快楽を吐き出して果てた。
 その瞬間に見せた、少し傷ついたような探偵の顔が、唯一『自分』に向けられたもののよう。
 だから。
「――…榎木津、さん」
 気怠い体を起こし、駆け抜ける痛みを堪えて探偵に許しを請う。
「これくらい、許して下さい」
 自分に、もし、まだ汚れていない優しさなんてものがあって。
 そしてそれが、神に、許されるものならば。

 その、すべてを。
 
 ゆっくりと、自分から唇を重ね合わせた。 
 なのに、如何して。

「益田……?」

 こんなときに。
 涙が、零れ落ちる、なんて。
「何でもありませんから」
 笑って誤魔化して。
 全てを飲み下す。
「全部、僕の見た夢です」
 人の夢は儚いから。
 少し微睡んで目が覚めたら何もなかったように。
 泡沫のごときこの時間は、全て夢へと化すだろう。
 だから。
「おやすみなさい」
 笑う。
 期待なんかしませんから。
 どうか、安心して。
「眠って下さい」
 そして全てを夢に変えて。
 僕の見た夢に変えて。
 ただ真っ直ぐに、あなたは自分の大切な人を想い続けて。
 僕を罵倒して下さい。
 いつものように。
「おやすみなさい」
 抱き寄せる腕が優しかったのも、自分の夢だからと言い訳して。
 神の寝息が聞こえるまで、ずっとその温もりを体に刻み込んでいた。
 偽りの言葉が招いた未来は不毛な想いを枯らしもせず。
 当面消えそうにない痛みを刻み――…。

 

―続―

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