綺麗に包装された小箱。
 その中には、趣向を凝らした形のほろ苦い洋菓子。
 綺麗事で取り繕っても確かに残る、仄かに苦いような関係を象徴しているようで小さく自嘲した。

【背徳の味 01】

「何だい? 突然」
 包装された小箱を差し出されとりあえず受け取ったものの、その理由が判らず中禅寺は妻に尋ねた。
「今日が何の日か御存知ですか?」
「何の日って――何かあるのかい?」
「ヴァレンタインデーですわ」
 悪戯っぽく笑う妻とは反対に、古書肆は眉間の皺を深くして訝しそうな顔をする。
「確かに今日は2月14日で、欧羅巴なんかじゃ花や洋菓子、カードなんかを恋人に贈る習慣のある日だが――日本にはまだ浸透していないのじゃないか? 確か大戦前に神戸の洋菓子店が国内の英字雑誌に『バレンタインチョコレイト』の広告を出して少しは話題になったりもしたようだがそれきりだろう?」
「あら、本当に何でもよく御存知だこと」
「僕は君がそんなことを知っていた事実の方に驚いている」
「うちは和菓子屋ですから」
「だからさ。チョコレイトは関係ないだろう?」
「そうでもないんですのよ。父なんかそのことをひどく怒っていましたし、当時は気が引けましたけど――今はそんなこともありませんし。思い出したので買ってみたんです」
 妻の話に耳を傾けながら丁寧に包装紙を剥がした。洋菓子店などで売っている、贈答品用の品らしい洒落た紙箱。開けると趣向を凝らした形のチョコレイトが整然と三行四列で並んでい た。
「ほう、食べ物じゃないような作りだな」
 一粒をつまんで齧る。
 舌の上でゆっくりと溶けるチョコレイトは、甘いがくどくなく仄かに苦味もあった。
「いかがです?」
「悪くないね」
「お茶を淹れ直してきますね。そうしたら買い物に行ってきます」
 反応に満足そうな顔をして千鶴子は台所へと向かう。
 遠ざかる跫を聞きながら、口の中に残る苦味は罪悪感だろうかと考えて苦笑した。
 降り積もる時間は不自由を量産し、手の中にあった自由はいつの間にか姿を消していく。
 狡い自分を自覚するたびに、しかしながらそれを許されてしまうから、つい甘えてしまっているけれどきっと、もっと――薔薇を素手で手折るような痛みを自分は知るべきなのではないかと思ったりもする。
 ――それこそ偽善か。
 自嘲で思考を覆い隠して二つ目を口の中に放り込むと、お茶の匂いを連れて妻が戻ってきた。
 手渡しで湯呑を受け取って、背徳の味のような洋菓子の苦味をお茶で上書きする。
「それじゃあ留守を頼みますね」
「偶には玄関まで送ろう」
「まぁ、珍しいこと。帰りに雨が降ったら恨みますよ」
「随分な物言いだなぁ」
 重い腰を上げ、床の間の壁に掛けてある妻の上着を片手に持って玄関へと向かった。
 廊下はすぐに尽きて、履物を履く間少しだけ待つ。こちらを振り返ったところで上着を渡し、片手を伸ばして着物の肩を直してやった。
 面映そうに小さく笑う妻に、身を屈めてそっと――唇が触れるだけの口付けをする。
「気を付けて行っておいで」
 驚いたように目を見開いて、頬を薄く上気させて、けれどそれでも笑顔で「行ってきます」と云い置きカラカラと戸を開け閉てする音を残して出掛けていった。
 そして玄関を後にし奥座敷に引き返す。
 冬の冷たい空気の所為で淹れたてだったはずのお茶はもうほどよく冷めている。
 定位置に腰を下ろして読み止しだった本の続きを捲った。
 読書に没頭することで、余計な思考を遮断する。
 静かな時間が流れていた。
 このまま妻の帰りを待っているだけのはずの午後はしかし、突然の来客に壊される。
「わははははは。相変わらず本馬鹿だなぁ、お前」
 勢い良く左右に割れた襖。
 平穏な午後を打ち砕く高笑い。
 傾きかけた太陽の逆光の中には矢鱈美麗な顔をした探偵が立っている。
 うんざりとした顔で溜息を吐き、中禅寺は苦々しげに顔を上げて口を開いた。
「何度も同じことを云わせないでくれないかなぁ。襖が傷むじゃないか」
「この僕がやって来たのだから仕方がない」
「いいからさっさとそこを閉めて座りたまえよ」
「じゃあ座る」
 襖を閉めて中禅寺の真向かい――探偵の定位置にすとんと胡坐をかいて座る。
「座ったぞ」
「それで、今日は何の用だい?」
 再び本に視線を落とし、社交辞令のように尋いてみた。
 見たところ探偵助手も依頼人と思われる人物も引き連れてはいない様子。
 自分を何かの事件に巻き込もうとしているわけではないことだけ確認して少し安堵した。
「さっき千鶴さんと擦れ違ったぞ」
「そりゃあそうでしょう。あいつはさっき買い物に出たところだからね」
「少し顔が赤かった」
 座卓に頬杖を突いて、こちらの反応を窺うような視線を寄越してくる。
「――…悪趣味ですよ」
 意図を察した古書肆は憮然とした顔を上げて自分の向かいに座る男の端正な顔を睨んだ。
「ふん。僕だって視ようとして視たわけじゃない」
「揶揄いに来たんですか?」
「違うよ。昼寝さ」
 何処となく不機嫌そうな声音。
「なら寝ればいい。座布団ならそこにあるから勝手に使いたまえ」
 それに気付かない振りをするべきか否か決めかねて、結局素っ気無いあしらいになる。
 不満だったらしい榎木津が黙り込むと、途端に沈黙が忍び寄ってきた。
 居心地の悪さと譲り難い不満から態度を決めかねて、探偵は視線を何となく古書肆の手元に投げる。
 座卓の上には洒落た小箱。
 中には焦げ茶色の洋菓子が二つばかりの空席を作って整然と並んでいるのが目に付いた。
「……チョコレイト?」
「あぁ――千鶴子がくれたんですよ。ヴァレンタインデーの習慣に倣ってみたそうだ」
「何だそれは」
「欧羅巴での行事ですよ」
 結局本を読むのをやめて、ぱたんと閉じて脇に置く。
「2月14日はヴァレンタインデーと云って、欧羅巴なんかじゃ花や洋菓子、カードなんかを恋人に贈る習慣があるのさ。それを思い出して買ってきたらしい」 
「ふうん」
「そういうわけだからあんたにはやらないよ」
「要るものか」
 そんなもの――欲しくなんかない。
 この不器用な拝み屋が、その立ち位置故に抱えているもののために立ち行かなくなることがないよう彼女と自分はこの男の傍にいることを選んだ。
 口に出して互いに確認したりすることなど生涯ないだろうけれど、それでも――暗黙の了解のようにお互いにその領分を弁えていると――そう、榎木津は思っている。
 けれど。
 諒解っているのと割り切れるかどうかは別だ。
「京極」
 狡いと詰ったらきっと、過剰なほどそれを自覚している彼は、この先独りで全てを抱え込むことを選んでしまうに違いない。
 だから、そんな科白は云えない。
 必要とする衝動は、しかし、一方通行でもない。
「京極」
 喉の奥で焦げ付くような、この。
「何だい?」
 緩慢な動作で立ち上がり、座卓を回って古書肆との距離を詰める。
「――…榎さん?」
 崩れるように膝を突いて。
 何処か虚ろな眼差しのまま、手を伸ばして古書肆の髪に滑らせる。
「どうしたんだ? 一体」
「偶には、いいだろ」
 僕にだって堪え切れない時くらいある。
「ちょ…榎さん」
 衝動に任せて口付けた。
 離れた一瞬に見せられた抵抗を飲み込むように唇を塞ぐ。
 貪るように何度も角度を変えて、舌を差し入れて歯列をなぞった。逃げる舌を絡め取って呼吸さえ奪うように深く深く口付ける。
 やがて唇が離れると、それを惜しむようにどちらのものともつかない銀糸が唇をつないだ。
 それを親指で断ち切って、自分の舌で濡れた指を拭う。
「背徳の味がする」
「…………」
「僕がお前にやれるのはこんな――苦いのか痛いのかも判らないものだけだ」
「痛い?」
「さあね。でも――恋人なんて甘い関係じゃないからなぁ」
 顔にかかった前髪をかきあげて、自嘲めいた笑みを唇の端に乗せゆっくりと立ち上がる。
「帰る」
「え?」
「気が変わった」
「……榎さん?」
「お前が、そこの背徳の味の詰まった小箱を空にした頃また来る」
 背を向けた相手の手を、反射的につかんで引き止めた。
「図星か? 図星なんだな? お前が考えそうなことくらい僕はお見通しだッ。そんな焦った顔もらしくないから図星なんだな」
「そんなことはいいよ」
 強引に腕を引けば探偵はバランスを崩して倒れそうになったところを肩膝を突いて古書肆の肩に手を掛け何とか堪える。
「危ないことするなぁ」
 膝の痛みにそう文句の一つも言ってやろうと思った唇はしかし、不意打ちの口付けに遭い吐息ごと飲み込まされた。
 座敷が急に暗くなる。
 雲が太陽を飲み込むのに合わせて影は薄くなり空気の重さが増した。
 離れた唇。
 漆黒の瞳は戸惑いを隠しきれないまま視線を泳がせている。
「……馬鹿だよ、お前」
 探偵はそう呟くと、中禅寺の額に軽く唇で触れてから立った。
「でも、そういうのは嫌いじゃないゾ」
 皮肉っぽく笑い背を向ける。「偶には悪くない」
 どんな動機であったにしても、理性の塊のようなこの男の持て余した衝動からの行動ならむしろ微笑ましいくらいだ。
「何だか間男みたいで僕の好みじゃないけど気が変わったから帰る。だからお前はさっさとソレを平らげて、神の再訪を待つがいい」
「…………」
 何か別れ際の挨拶めいたものを云い置こうかとも思ったが、しっくりくるものが浮かばなかったので結局何も云わず静かに襖を開けてそのまま玄関に向かった。
 追ってくる跫は予想通り、ない。
 でも、それでいい。
 脱いだ時のままの靴に足を通し、カラカラと玄関の戸を開ける。
 煙草を取り出して、マッチを擦って火を点した。燐の匂いが冬の冷たい風に流されていく。
 紫煙を深く吸い込んで吐き出した。
 細い糸が頼りなく天へと伸びるのを何となく目で追ってみる。
「――…これも背徳の味か」
 自嘲するように小さく笑んで中野を辞した。
 チョコレイトのような甘さなど必要ない。ふとした時に思い出すようなこの、いつまでも何処かに引っ掛かっているような――背徳の味の方が互いに似合いだ。
 有害な煙を燻らせながら、だらだらといい加減な傾斜で続く眩暈坂を駅へと下る。
 雲越しに鈍い光を放っていた太陽が、悪足掻きのように束の間姿を見せた。

to be continued......


★アトガキと言う名の詫状★

 ヴァレンタインSSです。
 機軸は秋千←榎ですが、全体としては榎京(のつもり)です。
 千鶴子さんにチョコをもらった京極に探偵が嫉妬を仄めかすような行動に出るって話を書きたかったのですよ。でも探偵は自分が覚えた感情を嫉妬とは認めないと思ったりしています。
 遊ぶのは上手だけど、本命には不器用だといいです。特に京極相手だと、自分の領分を自覚している分自分で設けた制約に縛られてもどかしい思いをしてくれてると素敵(←偏屈)。

 そんなこんなで序盤は秋千。探偵の登場により秋千←榎になり、嫉妬めいた感情を探偵が自覚した時点で榎京に変わるという…昼ドラめいた人間関係状態ですが。
 ふたりの関係はこんな風に、甘くなくむしろほろ苦いくらいがいいと思ってます。
 奈緒ちゃんに捧ぐ。


>>>[02]を読む
>>>Novels-KのTOPへ
>>>『clumsy lovers』のTOPへ