帰宅すると、当然あるものと思っていた人物の靴が玄関に見当たらなかった。
 しばしば庭から回り込むこともある客なのでさほど気に留めず廊下を回って居間に向かったものの、縁側にもそれらしい靴は見当たらない。
 襖を開けると出た時と変わらぬ様子で夫が相も変わらず本に目を落としている。
「おかえり」
「榎木津さん、いらっしゃいませんでした? 出掛ける時に擦れ違ったのですけど――」
「あぁ、来たがもう帰ったよ」
「そうでしたか」
 違和感がふと絡みついた。
 けれど気の所為と割り切って、深くは立ち入らないことにする。多分、そこは自分が踏み込んでいい領域ではない。
「お茶のおかわりお持ちしましょうか?」
「そうだね。頼むよ」
 せめて日常は変わりなく。
 気付かれないように小さく苦笑して、冷えたお茶が僅かに残る湯飲みを片手に千鶴子は台所に姿を消した。    

【背徳の味 02】

 八つ当たりをするように乱暴にドアを開ける。
 来客を告げる鐘は妙な音を立てて主の帰還を告げた。
「うわっ」
 いつものように応接用のソファで和寅と世間話をしていた益田が反射的に首を竦める。
「え、榎木津さん……」
「こりゃ先生、お帰りなさいやし」
 動じることなくそそくさとソファから立った秘書に投げつけるように上着を預け、探偵は真っ直ぐ自分の椅子に向かうと乱暴に腰を下ろし背を向けた。
「――…どうしちゃったんですか? あれ」
「機嫌が悪いことだけは確かだ」
「そのくらいは僕にだって解りますよ」
「とにかく余計なことは言わない方がいいぞ益田君。私はちょっと買い物に出てくるからおとなしくしていることだ」
「あ、和寅さん狡いですよそんなの」
「だったら君はもう帰ったらいい」
 榎木津の上着を皺にならないよう壁に掛け、台所に引っ込むと支度を済ませて逃げるように買い物に出て行ってしまった。
「卑怯は僕の専売なんですけどねェ」
 ぼやくように口にして、所在無さ気に座ったまま探偵を振り返る。
 紫煙を燻らせるでもなく黙ったまま、探偵は――夕陽に染まって行く街並みを切り取る窓の方を見遣ったまま動かない。
 まるで自分は異物のようだと益田は思う。
 絵画のような光景。
 そう、黙ってさえいれば――探偵は、人を黙らせるような雰囲気を纏える男なのだ。
「榎木津さん」
 墓穴を掘ることになるのは目に見えているし、愚行だということも解っている。けれど、沈黙よりはマシだ。
「――中野で…何かあったんですか?」
 特定人物の名前が脳裏を過ぎったが直接口にすることは憚られた。
 無言のまま、漸く探偵はその矢鱈美麗な顔をこちらに向ける。視線は自分の頭の少し上の辺り。多分、記憶を探っているのだろう。
「バカオロカめ、また変態の真似をしていたな」
「はあ。僕ァ榎木津さんみたいな体質じゃないですからね。駅で中野方面のホームにいる榎木津さんを見ただけです」
 話を逸らされる。沈黙を避けるように言葉を継ぐ。
「昼寝に行ったんじゃなかったんですか?」
「行ったよ」
「でも寝てないでしょ?」
「気が変わったから帰ってきただけだ」
「それでも早いでしょうに。この時間じゃほとんど行って帰って来ただけじゃないですか」
「お前には関係ないよ」
 会話を打ち切るように、探偵は机の上に無造作に置いてある煙草に手を伸ばすと一本を抜き取り銜えて火を点した。手を振って消されたマッチの火が仄かに燐の香りを漂わせる。
 有害な煙を燻らせる横顔はひどく苦々しげでらしくない。
「喧嘩でもしてきたみたいな顔してますよ」
 自分が踏み込める領域を探る。
 憧れと恋愛感情の境界線上にいるのだろうという自覚は薄薄ながらあった。
 どちらも見極められないまま、薄氷を踏むような緊張が冷や汗となって背筋を伝い落ちる。
 喉の奥で何かが熱く蟠っている。心臓が煩瑣い。
「――そんな生温いものじゃないよ」
 不機嫌そのものといった声で、けれど予想外にまともな答えが返ってきた。
 知っている。
 彼の立つ場所も、彼が背中を預ける相手の立ち位置も、自分など近寄ることも出来ないくらい孤独で重過ぎる。
 だからこそ――彼は独りで在り続けるのだろう。
 それでいいと云ってた。
 でも、見ている方は辛い。
 探偵自身の評価はいつも、拝み屋の立ち位置の方が重い。益田にはどちらも大差ないように思える。
 何があったのかなど想像もつかない。ただこの状態を長く続けることは互いに辛いだけなのではないかという予測は容易に立つ。
 彼は、独りなのに――…。
「中禅寺さんは」
 狡いですよ。
 そう口にしようとして、それを阻むように探偵の鋭い視線に射竦められる。
 灰皿に、乱暴に押し付けられた煙草。
 不機嫌な跫を響かせ探偵は自分との距離を詰める。
 目を逸らせない。
 何も言えない。
 ソファに座ったまま長身を見上げると矢張り怒っているようだった。
「……いっ」
 襟元を掴まれ無理矢理立たされる。
 殴られるのを一瞬覚悟した。
 けれど――…
 思考がストップする。
 何が起きた?
 必死に考える。
 間近にある白皙の美貌。
 唇に、柔らかな感触。少し苦い。
 やっと自分の状況を理解する。

 これは――背徳の味だ。

 全然甘美なんかじゃない。もっと切実で、痛くて喉の奥が焼け焦げそうな、言葉にならない何かが刻み込まれていく。
 神様なんかよりももっと悲愴な覚悟。
 自分の視界にある者が本当に立ち行かなくなりそうなときは普段どれほど罵倒している相手でも手を差し出す。
 そんなに余裕なく見えたのだろうか。自分ではよく解らない。
 頬を何かが伝い落ちた。
 でもこれは自分のじゃない。
 この痛みも違う。
 全て、自らを神と称して憚らない探偵の齎したものだ。
 ゆっくりと唇が離れる。
「背徳の味だ。ナキヤマなんかには勿体無いな」
「泣いてるのは僕じゃないです」
「ふん、下僕の分際で人のモノまで抱えようとするからだ」
 突き放されると益田は糸を引かれたようにソファに座り込んだ。
 跫が遠ざかっていく。
「和寅が帰ってくるまで留守番してろ。それで相殺してやる。おぉなんという慈悲!」
 カラン、と沈黙の中に鐘の音が小さく溶ける。
 背徳の味の余韻に囚われたまま、益田は顔を覆って天井を仰いだ。
「人が悪いですよ……」
 雲間から覗いた夕陽が静まり返った探偵事務所を一瞬でオレンジに染め上げる。
 影に埋もれてこのままここで眠ってしまいたかった。

to be continued......


★アトガキと言う名の詫状★

 一話完結の予定が唐突に降ってきた着想に覆されました。
 2007年のヴァレンタインSSの榎京←益な第二話。益田くんには苦くて痛いヴァレンタインです。榎さんは益田くん気に入ってると思うんですよねー…アレでも。
 益田くんは榎さんへの憧れと恋愛感情の間で揺れてるといいと思います。

 次の舞台は京極堂です。関口先生、出番です。スタンバって下さい。


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