静まり返った事務所の中に、来客を告げる鐘の音はよく馴染んだ。
「遅いですよ和寅さん」
 不自然にならないよう注意して、目を合わせないように気を配りながら待ち草臥れたと装いソファを立つ。
「榎木津さんに留守番押し付けられて僕ァ散々だったんです。退屈で死ぬかと思いましたよ」
 話しながら壁に掛けてあるコートに歩み寄っていそいそと着込んだ。
「先生はまた出掛けたのかい?」
「相変わらず気紛れです。あのオジサンの行動は僕なんかには想像もつきません」
 軽く肩を竦めてドアに向かう。
「それじゃあ僕ァこれで帰ります」
 襟を立てて不自然じゃない程度に顔を伏せて。
 自分の中の良く解らない空白に余韻を残す、鐘の音と入れ替わりに事務所を後にした。
 
【背徳の味 03】

 体温で溶けて指先についたチョコレイトを舐め取っていると、お茶を淹れ直してきた千鶴子が小さく笑った。
「何だい?」
「名残惜しそうに食べているものですから、つい」
 もらってから数日が経過した、箱の中身はもう数個しか残っていない。
 口の中では背徳の味のように仄かな苦さが舌に残っている。
 それを、お茶の苦味で誤魔化す。ここ数日はいつもそうだ。
 来客もなく、ただ二人でとりとめのない会話を交わし、いつものように書を読み耽り時間を遣り過ごす。
 けれどふとした瞬間に、それは訪れ思考を束の間支配した。
 彼が飲み込んだ言葉を噛み締める。
 きっと「狡い」と自分を責めたかったのだろう。
 嘘を吐かないなら沈黙するしかない。
 だから彼はきっと本音を飲み込んだのだ。
 煙草に手を伸ばして火を吐ける。紫煙はゆっくりと煙を紡ぎ天井に吸い込まれた。
 気紛れに出掛けた猫がまた気紛れに戻ってきて小さく啼く。
「柘榴」
 呼ぶと、返事をするように小さく啼いて寄ってきた。
 手を差し出せば顔を擦り付けるようにして懐く。
 静かだった。
 今日もこのまま何食わぬ顔で一日が終わり行くのだと思っていた。
 しかしそれを否定するように玄関の方で物音がする。
 ドアの開く音に少し過敏になっている自分に気付いて妻に気付かれないよう苦笑した。
「京極堂、いるかい? お邪魔するよ」
 不明瞭な声が遠巻きに聞こえてくる。
「あら、関口先生がいらしたようですわね」
「わざわざ出迎える必要もないよ。先生は勝手をよく御存知だからね」
 本人の不安定さを反映した跫はそれでも迷いなくこの座敷に向かってくる。
「――ほら、御到着だ」
 襖がゆっくりと開かれると、そこには小柄で姿勢の悪い小説家がぽつねんと立っていた。
「何だ、矢っ張りいるんじゃないか。返事くらいしたらどうなんだい?」
「そんなことを云うなら玄関先で僕か千鶴子が出てくるのを待っていたらいい。尤も僕も千鶴子も出迎えになど出やしないから気付かれるまで立ち尽くすことになるだろうがそれも君らしくていいじゃないか」
「会って早々に随分なことを云うなぁ」
「どうでもいいから座りたまえよ落ち着きのない。まぁ僕は君が落ち着いているところなど見たこともないが立ったままでいるよりは多少マシだろう」
 反論しようとしたものの、いつものように小さく唸って定位置に腰を下ろす。
「お茶をお持ちしますわね」
 千鶴子はそう云って台所へと姿を消した。
 その後姿を何となく目で追って、関口は主に視線を戻す。
 常態からしていつも不機嫌そうではあるが、それはそう見えるだけで実際機嫌が悪いことは稀である。
 今日は違って見えた。
「君も機嫌が悪いのかい?」
 気になって、思わず尋ねてみる。
 本当に機嫌が悪い――というわけでもないかもしれないがいつもとは明らかに様子が違っている――ように見えた。
「関口君、君も一応は小説家なのだから助詞くらい正確に使いたまえ」
「助詞って…何で突然そんなところに話が飛ぶんだよ」
「脈絡がないと云っているんだ。『も』ってのは係助詞の類だから単独では使用しないぜ? 何に係るのか君は一言も口にしていないじゃないか」
「細かいなぁ」
 自分に不利な展開に口篭ると、持参した煙草を取り出し火を点け場を誤魔化す。軽い気持ちで口から出た問いにこの仕打ちはないだろう。矢張り機嫌が悪いのかも知れぬ。
「そんな見え透いた誤魔化しなどしていないで口にした言葉に責任を持ったらどうだい?」
「うう」
 容赦ない言葉に小声で唸って口許から煙草を離し、口が滑ったと今更ながら後悔した。
 古書肆は答えるまで口を開かないとでも云うようにさっきからずっと視線を注いでいる。
「え…榎さんに」
 結局沈黙に耐えられず、反応を窺いながら仕方なく答えた。
「一昨日、突然呼び出されたんだ。雪江も偶には外に出たらどうだなんて唆すから出掛けたけれど。無理矢理居酒屋に付き合わされて、何だかよく判らないけど随分機嫌が悪いみたいで深酒させられるし昨日は宿酔いがひどくて起きられなかったし散々で――」 
「そんなことはいいよ」
 眉間の皺を深くして、呆れ口調でそう切り捨てて溜め息を吐く。
 話の腰を折られ、むっとして関口は反論を試みた。
「君が話せと云ったから、僕は」
「経緯なんか尋いてないよ。要するに――さっきの『も』は榎木津に係ってたってことだろう? それだけ答えればいいところあれこれ話し出すから君の話は要領を得なくなるのだ」
 言葉に棘があるのもいつものことだが矢張り何処か違和感がある。
 しかも、さっきより幾分濃くなっているようだ。
 ごく自然に本に戻された視線はしかし、穿った見方をすればやや伏せ目がちになっているようにも見える。
 観察でもするように注視した。
 座卓の上の小箱に手を伸ばし、焦げ茶色の小さな粒をつまんで口許に運んで齧る。
 乾いた音が、音を無くしていた座敷に小さく響いた。
「チョコレイト……?」
「何だい?」
「珍しいじゃないか。本を読むときは本が汚れるからと云って手の汚れるものは口にしないだろう?」
「あぁ、勿論好んでは食べないよ。しかしこれは別さ」
「別?」
「千鶴子がくれたものだからね」
 一瞬だけ表情が和らいで、けれどその目は何処か複雑そうに指先でつままれた小さな粒を見詰めていた。
 あの戦争の時期を考えると、甘いものには背徳の味が詰まっているような気さえする。
 贅沢な代物だった。今は簡単に手に入る。
「――榎木津は」
 そんなことをぼんやりと考えていたら急に古書肆が口を開いたので思わずひどく驚いて間抜けな応答をしてしまった。
「え?」
「彼奴は…そんなに不機嫌そうだったのかい?」
「あぁ…うん。不機嫌というか…荒れているみたいだったなぁ。苛立っていたというか……」
「なるほど」
 何か裏があるのではは勘繰りたくなるほど察しの良い男はいつものように、何かを見切ったような思わせぶりな言葉をこぼしてチョコレイトの欠片を口の中に放り込んだ。
 噛み砕かれる洋菓子の、乾いた音が沈黙を煽る。
 ぼんやりと、それを眺めていた。
 喉が僅かに動き、嚥下されたことを知る。
「荒れる…そうだな。榎木津ならそうなるか」
 指先の、溶けたチョコレイトを舐めながらこぼされた独り言。口許には自嘲めいた笑み。
 小さくてはっきりとは聞き取れなかったが今度は尋くことが躊躇われた。
 多分、二人の間で何かあったのだ。
 思い出してみれば、一昨日の榎木津もこ古書肆の話題を殊更忌避していたような気もする。
 自分あたりには良く解らないが、それでも――この二人の間には言葉にし難い何がしかの繋がりがあるのは解る。
 今は綻びかけているのだろうか。
 けれどそれはお互いに傷付け合っているだけのようにしか思えない。
 もしそうならこの不機嫌な顔をした拝み屋は細君がいる分狡いようにも思える。
「京極堂、君は――…」
「あぁ、狡いよ」
 見透かしたようにそう答えた。
「君なんかに云われなくたって諒解っているつもりだ。僕は狡い」
 気紛れで現れた探偵がひどく傷付いたような顔を隠して去ったあの日から、自分の狡さを思わなかった日などない。
「狡いよ。酷く、ね」
 閉じられた本。
 沈黙の再訪。
 押し寄せる後悔。
 今日この日を選んで訪れた自分の間の悪さを恨む。
 急速に現実感が失われて負の感情に支配されていく。
 早くこの場を離れなければ。
 不意にそんなことを強く思う。
「急用を…思い出したよ」
 苦しい言い訳だと思ったけれど他に取り繕える言葉が浮かばなかった。
「そうかい」
 多分全てを見透かして、けれどそれに気付かない振りをして古書肆は「雪江さんによろしく」と相変わらず本人を粗略に扱った対応をする。
「じゃあ、また」
 襖を開けるとお茶を用意した細君が入る頃合を見計らって廊下に控えていた。
「あら、もうお帰りですか?」
「すみません」
 只管謝って玄関へと急ぐ。
 その跫を聞きながら、訝しそうな視線を寄越す妻に主はただ苦笑して返した。
「せっかく用意してくれたのにすまないね。僕がいただくよ」
「それは構いませんけど――…」
「何だい?」
「…………」
 踏み込めない領域。
 夫の様子はあの日からずっとこの調子だ。
 自分はただ待つことしかできない。それが今回はいつもよりも歯痒い。
「もう少し自分のことを大切になさって下さいね」
 二人分のお茶を座卓に並べ。
 幾分疲れているような顔をした夫の頬に手を伸ばして触れる。
 そっと、唇が触れるだけの軽い口付けをした。
「夕食の支度をして参りますわ。それまでにはせめてその、憂鬱そうな顔だけは何とかして下さいね。せっかくの食事も気が滅入ってしまいますから」
 努めて明るく口にして座敷を後にする。
 残された古書肆は「ありがとう」と小さく答えて部屋を後にする妻の後姿を見送った。
 小箱の中に残るチョコレイトはあと一粒。
 それを手に取り口の中に放り込む。
 ゆっくり溶けて広がる背徳の味。
 刻み込むようにゆっくりと味わった。
 そして小さな決断をひとつ。
 狡くても、そうしなければいけないのだろうと思うから。
 空になった小箱をその理由に。
 今夜、己が傷付けた神の許へ――…。


to be continued......


★アトガキと言う名の詫状★

 3月になっても気にせず連載【背徳の味 03】です。
 関口先生が勇者になりました。いやぁ関口先生の口調難しい。実際書いてみると京極や榎さんのがまだ書き慣れてきたような気がする分書きやすい気もします。
 とにかく先生お疲れ様でした……!!
 京極堂の、過剰に自分の狡さを自覚しているところが一番の弱さでもあり榎さんや千鶴子さんがほっとけない部分なんじゃないかと思ったり。見てる側のが居た堪れなくなるほどには自覚しないで欲しい、ってのが二人共通してたらいい。
 でも榎さんはそう想ってる傍らで、自分の立場の不自由さにも堪らなくなる瞬間があったらいいと思うのですよ。

 そんなこんなで第4話。
 出不精の拝み屋は自分が動くことで誠意を示せばいいと思う。


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