店先に差し込んだ陽が、いつの間にか随分と温かくなっていた。
 先日仕入れた本の整理が一段落付いた頃、見計らったように妻が顔を見せる。
「そろそろお昼にしたらいかがですか?」
 悪戯っぽい笑みに、何か企みがあるらしいことに気付いたものの古書肆は敢えて尋かずにおいた。
「あぁ、そうするよ」
「でしたら早く支度して下さいな」
「支度? 出掛けるのかい?」
「えぇ。ですから早く」
 花のように顔をほころばせて妻はひどく楽しげに急かす。
 渡された羽織を纏うと妻は、骨休めの札を取って店先に掲げ風呂敷包みを片手に店の外へと手招いた。 

【花弁の手紙 ―前編―】

 行き先を告げない妻の後ろを歩く。降り注ぐ陽はすっかり春のそれになっていて温かく心地良い。
 目的地は少し歩いただけで検討がついた。
 新緑の中に佇む石段。
「神社で食べようって云うのかい?」
「折角のお天気なんですもの。偶にはよろしいじゃありませんか」
 肩越しに振り返った妻の様子からすると、外へと誘い出した理由はどうやらその場所にこそあるらしい。
 おとなしく従い石造りの階段を上る。
 鳥居を潜って境内へ。
 白い絵の具を混ぜすぎたように寝ぼけた蒼い色の空の下、開けた視界には小さな森を背にした社。
「ほう」
 玉砂利を踏む足を止めた。
「なるほど、この所為だったというわけか」
「ここのところ温かでしたでしょう? 満開にはまだ遠いですけどお昼をいただくのに眺めるには十分かと思って」
「この前掃除に来た時には気付かなかったな」
「今日掃除に来たら咲いてたんです」
 小さな社の脇に生えている、小振りの桜の木の枝にはもう薄紅の花がもうちらほら咲いている。これを見せたかったらしい。
「少し早いですけどお花見気分で」
 拝殿の、賽銭箱の裏の扉の前の上がり框状の部分に腰を下ろして風呂敷包みを広げた。
 小振りの重箱の一段にいなり寿司が、もう一段に春らしい食材を使った煮物類が詰め込まれている。即席で用意したにしては上出来な昼餉だった。
「白木蓮も綺麗でしたけど…やっぱり、桜は春の象徴みたいなものですから」
 散りかけの白木蓮に視線を投げて、また桜に目を戻して妻は顔をほころばせる。
「白木蓮、桜、花水木と咲いて――夏は青葉、秋は紅葉、冬枯れに雪。この規模の神社なら贅沢なくらい」
「おいおい、京都のと比べないでくれよ」
「藤があったら良かったのですけれど」
「ここを植物園にでもするつもりかい? これでも多いくらいだ」
「あなたの本ほどではありませんわ」
 春風が桜の枝を小さく揺らし、薄紅の花弁を攫って妻の髪を飾る。
「桜吹雪はまだ遠いが――これはこれで風情があっていいな」
 手を伸ばしてそれを摘み取った。
 しっとりと柔らかい花弁は手のひらに乗った途端また風に流されて何処へか去った。春を連れた花弁の手紙の行方はもう目では追えない。
 あれから、もう一年が経つのだとふと気付く。
「――…京都も、桜はもう見頃なのかい?」
 思考を振り払うように尋ねた。
「え? えぇ…早咲きの所はもう満開かもしれませんね。母がくれた手紙にも早咲きの桜が一輪押し花にしてありましたし。これから忙しくなりそうだって父も云っていましたわ」
 故郷を語る時の妻は、懐かしそうな顔に少しだけ寂しげな色を混ぜる。
「今年は見に行くのもいいね」
 罪滅ぼしにもならないだろうけれど。
「ゆっくり桜を愛でるのも悪くない」
 散々だった箱根の埋め合わせに少しでもなればとも思う。
「まぁ、雨で桜を散らさないで下さいね」
「来週末まで桜がもつといいが――」
「大丈夫ですよ、きっと。ほとんどは咲き始めたばかりですから。帰ったら家に電話を入れておきます」
「そうだね、頼む」
 空腹が満たされ箸を置き、もう一度桜を眺めやる。
 ゆったりと流れてくる春風が心地いい。
 木々のざわめき耳を傾け目を閉じた。
 遠く空で鳴く鳥の声が混じる。
 それに。
「誰か来たかい?」
「え?」
「石段を上る靴音が聞こえた気がしたんだが――」
「気の所為じゃありませんか? 私は気付きませんでしたけど」
「そうかな」
「嫌ですよ。妖怪の類は本とあなたの饒舌だけで十分です」
 妻の声を聞き流して、拝殿を離れ玉砂利を踏み鳴らし石段に向かう。
 見下ろした先にも人影はなく、人がいたような気配もかった。
「……桜?」
 しかし、置手紙のように桜の小枝が一つ石段に落ちている。上ってきた時には確かなかった。拾い上げてよくよく見れば、刃物で切られたその切り口に誰かが落としていったものらしいことだけ判る。
「あなた? 誰かいらしたの?」
 手早く荷物を片付けて、妻が訝しげに歩み寄ってきた。
「桜…ですか?」
「そのようだね」
 心が騒いだ。
 まさか、とは思う。けれど。
「参拝にいらした方かしら?」
「折角だから一輪挿しにでも生けてやろう」
 咲いたばかりの桜の花を手に石段を下る。
「心配ないよ。僕等に遠慮して引き返したなら近所の人だ。気に病むことはない」
 足を止めたままの妻を振り返って告げた。
 もし馬鹿げた着想が真実なら、彼女は何も悪くない。悪いのは――全て自分だ。
「……そうですね」 
 妻が下りてくるのを待って、二人並んで石段を下り自宅に帰った。
 石段に添えられた花弁の手紙。送り主はまだ知れない。
 直感めいた確信は、妻には語らずにおこうと決めた。


to be continued......


★アトガキと言う名の詫状★

 少し間が開いてしまいましたが京極新作はまた季節モノです。
 桜が綺麗な時期なので、桜絡みの話を書いてみました。前半は秋千です。榎さんは影しかありません(^^;)
 後編は榎京になっています。秋千←榎&榎京ですね。
 
 茨道なのかどうか知りませんが、それでもやっぱり真壁は京極には真実愛妻家であってほしくて、けれど高校時代の頃の習性も抜けず榎さんも必要としていて欲しいという書き手の趣向をモロに反映させた構成になっています。
 できるだけ円満に、榎京(京榎)の関係を維持させてあげたいのです。


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