実家に帰ったら温室に、桜の鉢植が増えていた。 「何だ、もう咲いているのか」 世間より早咲きの庭の桜も満開とまでは行かないが、それでも既にもういくつもの花が綻んでいる。母が得意気に見せてくれた。 きっとあいつは部屋に籠もって本ばかり読んでいるのだろうから春がもう降り立ったことも桜が咲き出していることも知らないだろう。見せたら驚くかもしれない。 その思いつきをすぐにでも実行したくなって。 母と庭師に頼んで桜の枝を一つ束にしてもらい、いつもはもう少し長居する実家を後にした。 【花弁の手紙 ―中編―】 事務所に帰ると探偵助手と秘書兼給仕役の和寅が意外そうな顔をした。 「え…榎木津さん?!」 「そうだ、僕だ!」 「あれ? 先生昨日は御実家に帰られたんじゃなかったんですかい?」 「帰ったよ」 「いつもなら一週間は帰って来ないじゃないですか」 「馬鹿者。いつもそうだからと云って今日もそうだとは限らないのだ」 そうは云っても随分早い。まだ正午を少し過ぎたばかりだ。普段なら起きて来ないことだって珍しくない。 「――和寅、珈琲」 抱えていたものを自分の机にぞんざいに置いて所望する。 言われてそそくさと台所に引っ込んだ和寅を眺めやって、益田は榎木津が抱えていたものに視線を移した。 「――桜ですか? それ」 新聞紙に包まれた枝に薄紅色の花弁が見える。 「何だマスカマ。覗くなんて矢っ張り変態じゃないか」 「僕ァカマじゃないですし、それだって覗いたわけじゃないです。僕の位置からは丁度見えるんですよ」 眉根を寄せて不満そうに言い返すが、案の定榎木津には聞き流されてしまった。 探偵は機嫌良さそうに、背後の机に寄り掛かるように立ったまま煙草に火を点け燻らせている。 「もう春なんですねぇ……」 つまり、あの房総の事件――益田が榎木津に弟子入りを願い出て押し掛け社員を始めてからもう一年が経とうとしているということである。既に一年経ったのかもしれない。何だかあっという間だった。 凄惨な事件も珍妙な事件もあったがそれでも一年。 二月に地雷を踏んでから約二ヶ月。 未だに――探偵との距離を持て余している自分に益田は苦笑する。 「あれだけ外に出ていて今迄気付かないなんて益田君も鈍感だな」 珈琲の香りを漂わせながら和寅が台所から戻って来て茶化した。 「はい、先生珈琲」 カップを受け取って榎木津はブラックのまま口を付ける。 「そんなとないですよ和寅さん。僕ァ一昨日だって上野公園通りましたけどまだ全然て咲いてませんでしたよ」 「当然だ! 僕は運送屋じゃないから他で見られるものをわざわざ運んだりしないッ」 「あぁ、そう言えばお屋敷のは早咲きでしたね」 最後の一口を呷るように飲んで、探偵は机に置いた桜を手にするとまた行き先を告げずに事務所を出て行った。 乱暴な扱いに、花びらが一つ離れて益田の足許に舞い落ちる。 「慌しいですねぇ…まったく」 摘み上げて光に透かしてみた。 「花弁の手紙…か」 届けにいく先は――きっと。 「何か云ったかい益田君」 「いいえ、何も」 閉まったドアに視線をやれば、ドアベルがまだ小さく揺れている。 「無邪気だなぁ…あの人は」 出て行った探偵を思い遣って一つ笑みをこぼした。 当の本人はそんなことは露知らず、上機嫌にまた駅へと足を向けている。 小脇に抱えた桜が人にぶつからないよう気を配りながら雑踏を歩いた。電車はほどよく空いていて、中野駅で下車してからは人通りも少ないのであまり気を遣わずに少しだけ急いだ。 眩暈坂を越えた先に見える見慣れた看板。 店には骨休めの札が掛けられている。 遠慮なく母屋の方に回ろうとしたら、不在らしく鍵が掛かっていた。 「……神社か?」 また少し歩いて古書肆が神主を勤める神社に向かう。 青葉を茂らせた木々が並びすっかり春めいてきた石段をゆっくり上った。 最上段の三段下辺りで拝殿に視線を遣ると古書肆の姿が見える。 「京極」 呼ぼうとして、飲み込む。 隣には彼の細君がいた。文字通り、その先は聖域のようで踏み込むことも声を掛けることも躊躇われた。 彼女の視線をなぞると境内に桜らしい木があるのが見える。 それが桜らしいと判別できたのは、自分が手にしているものと同じようにその枝に薄紅の花が見えたからで。 ひどく滑稽に思えて自嘲がこぼれた。 そのまま靴音を立てないように――聖域を取り囲む空気を壊さないように注意しながら石段を降りる。 「とんだ道化者だな、僕も」 そのまま古書肆の家とは反対の道に足を向けた。追うように玉砂利を踏む音が聞こえた気がしたが、今は気付かれても困るのでそのまま当ても無いまま歩いた。 油土塀を左手に見ながら春空の下を行く。角を左折した処で足を止めた。 見上げた空は寝ぼけた水色。薄く雲がかかっているようだがそれでも晴れている。 南中よりやや西に傾いた太陽とふと目が合って左目に痛みが走った。思わず目を覆って膝を突く。 右手に抱えた桜の束。 宛先不明で帰って来た郵便物のように遣り場の無いものになってしまった。 届ける先のなくなってしまった花弁の手紙を持て余したまま再び歩き出す。 擦れ違った風は嘲るように、手許から花弁を一つ奪って空の彼方へと連れて行った。 |
to be continued...... |
★アトガキと言う名の詫状★ 前後編の予定だったんです。 でも書いてみたらこれは前中後編の三部構成にした方がいいと思いまして。予定を変更して前中後編構成で書くことに致しました。そんなわけで榎京の予定が秋千←榎状態になってしまいました。むしろ秋千←榎←益か。 前編は京極サイドを中心に、榎さんの影を見つけるまで書いて。 中編は榎木津サイドを中心に、京極を見つけたものの擦れ違うまで書いて。 後編で二つが交差します。次こそホントに榎京です。 しばしお待ちを。 |
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